2019年2月26日火曜日

十一通目 2019年2月26日

松原さんへ

 こんばんは。仕事が忙しく、結局僕の方も何も準備できずにこれを書いています。
 僕もあれからまた何の目的もなく古本屋へ寄ってしまう悪癖が出てきて、
大江健三郎『文学ノート』『大江健三郎全小説4』
『ソクラテス以前哲学者断片集第Ⅰ分冊』同『第Ⅲ分冊』
モーリス・ブランショ『カフカからカフカへ』
アラン・ロブ=グリエ『反復』
後藤明生『笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ』
と、課題本のホセ・ドノソ『境界なき土地』
などを購入してしまいました。それぞれ、いつ読み終わるのかはわかりませんが……。
 最近自転車で遠出をすることにハマり始めたので、自宅から日本橋まで16キロほど漕いで行き、その帰りに神保町に寄ってしまい、そのように気軽に神保町に寄ることが出来るのは全く良いことではありませんね。半熟卵の乗っているネギトロ丼というのを購入し、そこで食べたのですがネギトロの真ん中に半熟卵の収まるべき空間というか窪みがあいているにも拘わらず、そこには半熟卵の姿がありませんでした。店員は年老いたおばさん一人で回していたため、たった四人客が来ただけでレジと製造と配膳でめまぐるしく動いていたため、「ここで声を掛けるわけにはいかない……」といって、しばらく待ってから声を掛けました。その間、ネギトロ丼に口を付けた場合に、半熟卵を置くべきスペースが欠損してしまったり、最悪の場合「あなたはネギトロ丼としてそれを食ってしまったのだから、もう半熟卵を置くことは出来ない」と宣告される恐れもあると思い、ただ日本酒を飲みながらその店員の手が空くのを待っていました。その間に、その店は食券制であった為、本当に自分はネギトロ半熟卵丼を購入したのかどうか、それは頭の中で悩んでいただけで、結局ネギトロ丼のみを購入したのではないのか? というところがはなはだ怪しくなってきました。しかし店員に聞いてみると、うっかり半熟卵をのせ忘れたというだけのようでした。しかし、半熟卵の乗るべき空間がしっかりと空けられたネギトロを盛り付けたにも拘わらず、半熟卵をのせ忘れるということが果たしてあるでしょうか? 自転車NAVITIMEは気持ちの良いほど直線の距離を指し示した為、向こう10kmほど幹線道路を直進するのは気分が良かったです。ああいったゆったりとした数百メートル単位の起伏を感じるときに、AとBがすれ違った時というベケットの情景を思い出します。金星が窓の外から見える。相変わらず。相変わらず窓の外に金星がベッドの上から見える。その時、彼女はこの生命の源をうらむ。『見ちがい言いちがい』の冒頭です。冒頭を、思い出しながら書きました。保坂和志は優れた小説は記憶することが出来ないと常々言っています。ベケットは(とりあえず、軽い言葉になってしまいますが)真に言葉の力を辿りながら小説を書いているゆえか、『伴侶』においてもこの『見ちがい言いちがい』においても『いざ最悪の方へ』の表題作、「なおのうごめき」のどちらにおいても、頭の中で特定の情景を結ぶことがありません。それはいくつかのシュルレアリスムの試みのようにあえてピントをずらしているというようなものでもなく、そもそも言葉が意味を結ぶこと、それから情景を結ぶこと、記憶に収まることというそれぞれの段階の作動方法が普通の小説(散文)と違うという事なのでしょう。読み続ければ、何かがわかるような気分にもなるのですが、読み終わるととたんに遠ざかってしまう。『夜の鼓動にふれる』を読んでいたときも、ちょうどそんな具合でした。ところで虚體ペンギンさんもとい環原望氏の『無名者たちの昼と夜』において庭に置いてある巨大な船の骨組みという構造物がありましたね。あれが何とも印象的でした。ベケットの言葉と意味との結び目についての追究を引き継いだのはやはり岡田利規であると思います。そのコンセプトをそのまま『コンセプション』という小さい冊子にまとめていました。彼の行う演劇よりも、というより並列して言葉の力によってより劇的に表現された、言葉から意味へのすごく慎重な滑り行きを、いかにそのままの形で観客に与えるのかという所を克明に描いていました。お兄さんの松原義浩氏も言っていたように、やはりポイントは言葉から意味へ渡るこのわずかで不可視な距離、にあるのではという気分に、今はなっています。内容の薄さを得意の冗長性で埋め合わせたような文面で申し訳ありません。返信になっているのかどうかも、はなはだあやしいですが、以上で失礼します。

Pさん

2019年2月19日火曜日

十通目 2019年2月19日

Pさんへ

 こんばんは。2週間ぶりの返信です。このゆったりとした間隔も、これはこれでいいものですね。前回のPさんからの書簡、ロシアとフランスとの関係が、僕としてはとても興味深い話でした(岐阜とロシアの話もよかった。)去年のロシアW杯でのフランス優勝も、どこか必然的だったのでしょうか。
 さて、僕は昨日、地元のT市から名古屋へ行ってきました。目当ては今池の映画館でしたが、そのまえに本山の古書店・シマウマ書房に寄りました。今月の24日に一旦閉店するとツイッターで知ったので、店主の鈴木創さんにそのことを訊いてみたら、14年間ここで営業なされて、今年の4月か5月にまた名古屋市内で営業を再開するそうです。僕の地元では、2013年に街の本屋さんの書苑イケダが閉店しました。その店主・池田仁さんは非常に有能な方で、僕はこの本屋に足かけ10年以上に亘って、大変お世話になりました。僕が2004年にメルキド出版の立ち上げができたのも書苑イケダのお陰です。僕はイケダの閉店の2月17日にお金を卸すのを失念したために、3冊の文庫本しか購入できませんでした。哀しい別れの意味を込めたわけではありませんが、『失脚/巫女の死』『ダブリンの人びと』『死霊Ⅱ』を買い求めたことを覚えています。ちなみに、それから1年後の2014年2月21日、僕は東京の丸の内で、阿部和重と初めて会い、サインと握手をしてもらいました。そしてさらに5年後の2019年2月18日、僕は移転間際のシマウマ書房で14冊の古本を購入したのです。以下がそのリストです。

『書簡文学論』小島信夫
『小説の方法』大江健三郎
『現代文学で遊ぶ本』別冊宝島編集部・編
『愛その他の悪霊について』ガルシア=マルケス
『小説の精神』ミラン・クンデラ
『地下街の人びと』ジャック・ケラワック
『燕のいる風景』柴田翔
『天使の惑星』横田順彌
『聖耳』古井由吉
『夏目漱石論』蓮實重彦
『野草』魯迅
『ユリイカ 吉岡実』1973
『ユリイカ ソレルス』1995
『文學界』2016・7
 
 店主が百円値引いてくれました。その後、今池まで地下鉄で移動して、ココイチで昼食をとり、正文館で文庫を見たあと、映画を観る意欲を失い、そのまま帰宅しました。
 いま話題の山本浩貴「Puffer Train」は、群像の結果が出たあとに時間をとって読みたいと思っています。
 今回は即物的な書簡になってしまったので、次回はしっかりと思考したいです。

松原

2019年2月12日火曜日

九通目 2019年2月12日

松原さんへ

 一週間はあっという間に来てしまうとも言えるしこの一週間のうちにいろいろな事が起こったとも言えますね。仕事が忙しくなり読書がはかどらなかった私を尻目に徘徊のさんと共に礼二さんがフォロワーに対して猛烈な本のプッシュを行っていたのが印象的でした。そのムーヴメントに僕もあやかり、一冊本を推薦していただきましたね。飯島耕一の『暗殺百美人』、ぜひとも読ませていただきたいと思います。
 さて、話題はロシア文学へ回り道をする、それもよりによってドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』に、ということでありますが、僕はこの作品を都合三回は通読している計算になるはずなのに、何も覚えていないといってよい状況です。すでにお読みになっているかどうかわかりませんが、「大審問官」の章が一番あの小説を読んでいて良かったと思える箇所でした。実際に読まれた確証を得てから、ご感想を聞きたいものです。小説が表現できる幅と多様さに驚いたものの、今に至るとチェーホフもそうですが、小説が何であるかとか、小説の持つ時空について考えが改まるという所まで影響は伸びて来ませんでした。何年かぶりに読み直してみたら、新しく立ち上る印象もあるのでしょうか。チェーホフの「かもめ」、「三人姉妹」の頽落した、何の興味もない劇中劇とか誰に向けるともなく喋り続ける老人の姿なども忘れられません。やはりゴーゴリでしょうか。念入りにハッタリをかます為にポマードを頭に塗りたくる『死せる魂』の場面や(僕も『死せる魂』の中巻だったか下巻だったかに差し掛かったところで止まってしまっています)、似たような場面がドストエフスキーの他の小説にもあったように記憶していますが、一銭でも支出を惜しむ地主の姿や「チョウザメの卵」という今でいうとキャビアのことでしょうが、執拗な料理の描写など忘れられません。魚卵全般が現在では高価な食材になってしまいました。また、チェーホフが日記の中でドストエフスキーについてたった一言だけ触れた言葉が「冗長である。」の本当に一言であったというエピソードなど、それらが一挙に後藤明生に流れ込み、目の前を明るくするという事もあるのかもしれませんね。キリストの言葉について、田中種助(田中小実昌の父)が何よりも言葉であるよりも光であったと言っていました。光景が全く具体的でないのに言葉より具体的な光とはいったい何なのか、聖職者でない私どもが思いもよらない言葉と存在に関する経験なのでしょうか。ここでドストエフスキーが死刑の瞬間に覚えたであろう癲癇発作の直前の閃光について思いを致すべきでしょうか。ドストエフスキーはやはり瞬間の作家だったのではないかと思います。いや、彼はどうであるとか、そんな断定的な事はせずにただ読めば良いのかもしれませんね。
 岐阜の地はその土地の広漠たるありさまとその地の作家の思考の粘り強さがロシアと近いと思います。フランスの流麗、純然たる伝統を維持しつつ急速に新しくなる力を得ているのとは対照的に、ロシアでは日本人が英語の外来語を多用するようにフランス語の外来語を多用する人物が俗物として出てきたりしますね。《神がかり行者》については、全く記憶にありませんでした。
『新しい小説のために』も『カンポ・サント』も『新しい人よ眼ざめよ』も、『いざ最悪の方へ』も、読み続けています。

Pさん

2019年2月5日火曜日

八通目 2019年2月5日

Pさんへ

 こんにちは。こんごは、週1回での遣り取りになりますね。さて、今週の書簡では「死と生」「新しさ」を考えるうえで、いままでに主に取り上げてきた記憶の作家たち、保坂和志、プルースト、ゼーバルトらから一旦離れ、まずはドストエフスキーについて書き、それからさらに「記憶」に戻って考えてみたいです。
 これまでの書簡で、ロシアの作家について言及したことはなく、僕が把握している関連事項としては、早稲田大学の露文科を卒業している後藤明生の名が、チラっと出てきたくらいだと思います。歴史は密に混ざり合っているので、ほかにもロシアとの有機的な繋がりを探せば、いくらでもあるのでしょうが、ここでは深堀りしません。
 さて、ツイッターなどでご存じの方もいると思いますが、僕はいま『カラマーゾフの兄弟』を読書中です。ドストエフスキーは、これまで『貧しき人びと』『白夜』『地下室の手記』といった短篇しか僕は読んできませんでした。どれもとても面白く、且つ興味深く、20代のころ読んだ記憶が残っていますが、この『カラマーゾフの兄弟』は、それらとはまた別種の小説であろうと思います。
 といっても僕が読み進めたのは、およそ三週間で、上巻の「第三編 好色な男たち 三 熱烈な心の告白——詩によせて」までです。つまりは上巻の40%です。この作品は上中下の三巻組で、一冊600頁以上はありますから、全体でいえば、まだ20%くらいでしょうか。第一編は半日で読めてしまったので、全巻一ヶ月で読める! と大見得を切ってしまいましたが、ほかにも読みたい本は山とあるので、これをぜんぶ読み終わるには一年、いやそれ以上かかりそうです。
 べらぼうに面白い、そんなボキャ貧な感想しか浮かんでこないのも事実ですが、気になったことをつらつらと書き留めておきたいです。
 まず、僕がもっとも引っかかった文中の言葉は《神がかり行者》です。これは僕が読んでいる新潮文庫の原卓也の訳文です。光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳では「神がかり」とされています。
 この言葉は、登場人物のソフィア・イワーノヴナとリザヴェータ・スメルジャーシチャヤに使われています。前者はカラマーゾフ家の当主フョードルの二番目の妻であり、後者はフョードルの私生児と噂されるスメルジャコフの生みの親です。
 ここで、兄から教わった一節を引きます。

「僕はひとつの計画をもっています。気ちがいになることです。」
(木野光司『ロマン主義の自我・幻想・都市像—E・T・A・ホフマンの文学世界—』関西学院大学出版会・29頁)

 これはドストエフスキーが、1838年8月9日に実兄に宛てて送った手紙の一部です。
 ドストエフスキーは、空間と忘却の作家だと思います。それに対し、「記憶」は時間芸術です。記憶と忘却は表裏一体であるように、時間と空間も自律した概念のようで紙一重の世界、いわばメビウスの環の世界でしょう。そこには時間的・空間的な永遠性が横たわり、ここにこそ《神がかり行者》がいるのです。つまりこの「気ちがい」とは、記憶と忘却、時間と空間の永遠性を往還するものなのです。それが僕の考える「死と生」「新しさ」だとひとまずはいえます。
 ですから、《神がかり行者》は、ゼーバルト「聖苑」における「コルシカの嘆き女」と「夢遊病者」に相通じるものなのです。また、昨日のバタイユ読書会とも通底するでしょう。

松原