2019年6月25日火曜日

二十七通目 2019年6月25日

松原さんへ

 本というのは結局のところ密室のような、本だけからなる空間からしか生み出せないのだろうか、ということを、ある時から考えるようになりました。それは、前にも再三話題にした、小説にとっての外部性とは何かということに非常に近付いてはくるのですが……考えることを続けさせて下さい。引き続き、今年の自分の挙動を振り返るようなことは続けていて、崩れる本棚の note の方に後々載せようと思っているのですが、非常に個人的かつ肉体的な事情として、最近物忘れが本当にひどくなって困っています。もともと何かを忘れることに対して居直るように無頓着であり、重要なことを忘れる所を他人事のように面白がる癖のようなものがいつからか付いてしまったのですが、中年に差し掛かってそれが笑えないレベルに至ってしまったのはそのように居直ることによって物事を振り返る手間を省き続けてきた事への生化学的な報いででもあるのかもしれません。
 冒頭の話題に戻ると、今年の初めに僕が読んだ田中小実昌の『アメン父』などは、綺麗に繕った伝記、ノンフィクションといったものに対する根本的な、言葉を書きつける瞬間からしての懐疑のようなものが全篇にみなぎっていて、小説や、文学的なものに対する外部ということを考える大きなヒントになりました。もちろん、『非-知』にしてもそうです。非-知というバタイユの概念は、まさにそのことを正面からとらえたものだと思います。これもどこかで言った繰り返しになるのかもしれませんが、今までバタイユの諸作を敬遠していたことが悔やまれる程の良い体験になりました。
 僕らが始めた「生存系読書会」ももうずいぶん続けて来ましたが、はじめのうちはコンパクトな近代文学を取り上げていて、一種の勉強会みたいな印象が今より強かったように思います。それが、カフカの「日記」を取り上げたときが皮切りでしょうか、ドノソ、マルケス、朝吹真理子、それから未来ですがベケット、シモンと、ある種のアンチ・ロマン的作品に焦点が移動してきており、量も増してきています。「メルキド出版」の活動も多角化してきています。松原さんに僕の気に入る音楽を送りつけたのも、どこかでそういう「小説の外部性」を頼ったコミュニケーションを期待してのことだったように思います。降ったり止んだりの安定しない気候が続きますね。御自愛を継続した生活を送って下さいますようお祈り申し上げております。ゆっくりとですが、メンバーの間で徐々に前衛アンソロジーの作品に対する意思表明や言及が増えてきたような雰囲気が漂っています。私は途方に暮れています。皆が皆、まず得体の知れない「前衛」という言葉に対し、何ぞや? とぶつからざるをえない、この状況を作り出したこと、それ自体にまず価値があると思います。繰り返しになりますが、僕個人は途方に暮れています。一行も書けていません。まだ締め切りにはまだ間があるようですが、おそらく、二つの巨大な読書会をこなしているうちにあっという間にその時が来てしまうのでしょう。、今年の初めに、マジカントと崩れる本棚の二つの締め切りを前にして途方に暮れ、えらくふさぎ込んでいたことの再来です。しかし自分を追いつめないことにはどうしようもない、そんな風に小説を書くことを前にして腰の引けている自分を客観的に眺めると、果して自分は小説を心から楽しく書いているといえるのか? 疑問に思えてきます。松原さんはそういう思いにかられる時はありませんか? また、そのような時はどう対処しておられますか? 教えて頂けると幸いです。

Pさん

2019年6月20日木曜日

二十六通目 2019年6月19日

Pさんへ

 返信、遅れました。今回は、Pさんがどこかでこの半年を振り返っていたような気がするので、僕もやってみようと思います。
 では、2019年上半期に読んだ本のなかで、印象的だったものをとりあえず10作上げて、なにかしら考えてみたいです。
 
①砂の女 安部公房  
②送り火 高橋弘希
③鳥打ちも夜更けには 金子薫
④ヤンの未来 ファン・ジョンウン
⑤ニューヨーク革命計画 アラン・ロブ=グリエ
⑥潮騒 三島由紀夫
⑦チャンドス卿の手紙 ホーフマンスタール
⑧二分間の冒険 岡田淳
⑨老人と海 アーネスト・ヘミングウェイ
⑩挑戦 フィリップ・ソレルス
(読了順)
 
 まえまえから基本的な読書をしようと標語のような目標を立ててやってきた節があります。ですからできるだけエキスパート向けの本(たとえば『死霊』『豊饒の海』『V.』など?)は避けて、というか先送りにしてきました。いつかは読んでみたいですが。それで去年からいままでに『城』や『カラマーゾフの兄弟』を途中で投げていたわけです。まあ、言い訳半分ですけど。
 前掲のリスト、それなりにバラエティに富んだ本を読めた気はします。しかし長篇・短篇・詩歌・評論・漫画などを含めてもこの半年41作読んだだけなので口惜しい限りではあります。なんせ「SF作家宣言」をしておきながら、ほとんどそれが進んでいない惨状に愕然とするばかりです。
 今年に入って意識的に音楽を聴くようになりました。それは村上春樹のラジオの影響だったり、ただ疲れやすくなっているので疲労回復のためだったりするわけなんですが、そのことにより書いている文章にも影響が出てきてしまいました。まあ、これは去年の夏頃には顕著な表れが出ているようにも思えますけどね。
 果たしてこの波及が吉と出るか凶と出るか。わかりませんね。とりあえず硬派な文芸誌には向かない文体になってきてしまったという自責の念があるにはありますが。やはり本を読まねば自分の文体を作ることは容易ではないですね。
 というわけで残り半年も基本的読書を継続していきたいわけですが、今年の年末から来年1月にかけて大西巨人『神聖喜劇1』を、来年初頭にはル・クレジオ『調書』、P・K・ディック『ヴァリス』の読書会を予定しています。というかそのまえにこの6月下旬に『百年の孤独』の後半を読み、夏にはベケット『モロイ』、シモン『路面電車』のリアル読書会があるわけで、これでは基本を優に越えて応用編にいつのまにか移っているようです。あくまで自然にスムーズに…… と思いたいところですね(予定通り行くといいです。)

松原
 

2019年6月11日火曜日

二十五通目 2019年6月11日

松原さんへ

「紙飛行機」への感想、ありがとうございます。直接的でなく、ひたすら創作行為を鼓舞するような口調が、松原さんらしいと思いました。自分としてはいまいち垢抜けないこぢんまりとした作品になってしまったと、後悔しています。
 いつかヘッセの読書論を巡って、ツイッター上で対話をしましたね。そのことと「著者の遍在性」ということなどが、分解したり統合したりしながら、頭を巡っています。仕事が幸いにも負担が軽くなっているので、いつになく読書が進んでいます。関係ありませんが、7月の「モロイ」の読書会には、申し訳ありませんが前回使用したICレコーダーは繰り返しの再生がやりにくかった記憶があるので、また別の物を用意して持って行こうかと思っています。いとうせいこうが「鼻に挟み撃ち」の中の短編か何かで、テープ起こしをする享楽について語っていましたが、僕にとってもまさに享楽的側面があります。何時間も聞き取りづらい音声と格闘し文字にしていき、当然のように口にされる言葉が全く文字に転換出来なかったり、不自然な並びになったり(意外なようですが、発音された言葉の中のかなり多くの部分が、文字にしたとき不自然になるというよりも、全く文字に直しようのないただの挨拶だとか、相づちだとか、突発的な感嘆句だったりとか、単なる発声そのものでしかなかったりすることに驚きます)、またコミュニケーション上当たり前になっている口頭の言語が文字に直される時の新鮮な感じに打たれるのです。打たれながら、何時間も音声を頭の中に、繰り返しインプットしながら過ごす時間は濃密で、その時目の前に位置している相手とはまた別の何かが、共有している空間の楽しさや白けた感じそのものに対峙しているような気がします。その幾分かは前回の「カフカ読書会」で表現出来たかと思いますが、カフカの日記のテキストに触れる何倍か、ベケットの「モロイ」の文章を読むと混乱してきます。文章を書くときの落ち着きとはぜんぜん違い、人に対峙して話すと読んでいる時の混乱の九十パーセント近くは夢を忘れる時のようにどっかに消えてしまいます。僕はつとめて本を読んだときの感想を述べる時はその混乱を可能な限り再現しようと思うのですがなかなかうまくいきません。ともあれ、7月の読書会を楽しみにしています。名古屋の地を踏むのがこれで二度目になります。あの余韻からこの書簡が始まったことを思うと、感慨深いとともに、互いに火曜日に追われているようなサマを見ると業のようなものまで感じてしまいます。
 最近、「メルキド出版」としての活動が、他のアマチュア作家のみなさんを巻き込んで本当に出版社めいたものになりつつあるその行動力には舌を巻いております。クリストファー・R・ブラウニングの「普通の人びと」の記録の一節や、渡辺一夫がフランス王朝の発言録を引用しているのを読むにつけ、このような一介の文学オタク同士の会話のようなものも、数世紀後になんかの理由で発掘された際には少しは面白みがあるんじゃないだろうかなどと、益体もないことを考えたりします。
 前回の書簡の中では、「ビートルズもマイナーなファンクバンドも、前衛音楽も並列に聴き漁った。」という所が、とくに感銘を受けました。いろいろな種類の音楽を松原さんに送りつけておきながら、最近はかつて聞いた音楽を酢昆布でも噛みしめるように聞き直すばかりで、新しい音楽に触れることを全く怠っていました。それは、慣れた音楽に慣れていくだけで音楽とは何なのかについて全く考えることをやめてしまったことを意味します。かつて自分に革命をもたらし、音楽とはこれだという確信を齎した素晴らしいサウンドも今となってはどんどん輪郭を失いつつあります。
 どんどん前に進むしかありませんね。

Pさん

2019年6月4日火曜日

二十四通目 2019年6月4日

さんへ

 先週の『百年の孤独』読書会、お疲れさまでした。対話をしているうちに思いのほか新しい知見も生まれ楽しかったです。6月もよろしくお願いします。
 さて、今回は内輪な話題で恐縮しますが、Pさんの春文フリ作品「紙飛行機」(『崩れる本棚』No.8.0)の感想を書いてみようと思います。
 
 Pさんは1987年生まれで僕と一回り違う。彼の過去ツイートによると、2000年代が同時代の刺激を浴びたもっとも多感な時期で、それは保坂和志の評論だったり、海外と国内のSF小説だったりしたらしい。僕は2000年当時、東京の大学生だった。といってもすでに25歳になっており、どこか冷めた目で時代を見ていた。やけくそでモーニング娘。にハマっていたほどだった。だから僕の主戦場は1990年代であり、名古屋大学の映画研究会に通信高校生の分際で籍を置き、馬鹿みたいな映画を撮りまくって周囲から顰蹙を買っていたあの時代が、いまの僕を作ったといっても過言ではない。
 きょうはいつものツイ廃から脱却して、ルーティンの音楽鑑賞と散歩をこなし、村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」(『螢・納屋を焼く・その他の短編』新潮文庫)を読んでいた。でもどうも読書は進まず、乃木坂46の「sing out!」を爆音でループさせたあと、気まぐれに堀部篤史の『90年代のこと 僕の修業時代』(夏葉社)をちょっと読んでみた。そこに興味深いことが書かれてあったので引用する。

「十曲の自然かつ意外な流れを生み出すためには数百曲、数千曲のストックが必要になる。反対に言えば、ジャンルやスタイルを問わないあらゆる音楽を収集しつづけることで、はじめて個性的な「つなぎ」が可能になる。」

「だから長い間、ロックやソウル、ワールドミュージックにジャズとすべてのジャンルにおいてでたらめな順番で、膨大な量の音楽に触れ続けてきた。名盤も珍盤にも貴賤はなく、古典的名作も評価の定まらぬ新作も順序なし。ビートルズもマイナーなファンクバンドも、前衛音楽も並列に聴き漁った。系統だった知識もないくせにと責められれば言い返す言葉もないが、音楽本来の自由な聴き方だと開き直ることもできる。デタラメなレコードの買い方をすることでハズレや失敗も多かったが、いつかどこでつながり、理解できる日が来るという思いが、未知のものへの投資に対して背中を押してくれた。自分たちだけが特別だったのではない。あの頃はそんな時代だった。」

 つまりは「紙飛行機」の感想はこのような雑食性の大事さということに尽きるのだ。この90年代の感覚は2000年代にもあったのではないか。そしてそれはいまの時代を最大限に吸収しているだろう若者たちの2010年代においても変わらぬことではないかと思う。

松原