2019年1月29日火曜日

七通目 2019年1月29日

松原さんへ

 こんばんは。僕はとんでもなく影響されやすいので、確かヘンリー・ミラーやフランシス・ベイコンがやっていたように、壁に引用の名言を書き付けて貼るという事をしています。ベイコンの場合は、レスリングの写真などを貼り付けていました。そこからあのように印象的な絵が生まれたのですね。紀行文というとやはりヘンリー・ミラーの『マルーシの巨像』を思い起こし、ついゼーバルトの文と引き比べて読んでしまいます。もっとも、『マルーシの巨像』も、途中までしか読んでいないのですが。ゼーバルトにおいてはフランス革命期、ミラーにおいてはギリシャ神話の発生期などにそれぞれ思いを馳せながら、道中で出会った印象深い人や物について語っていきます。ミラーでは特にカツィンバリスという憎めない人物が忘れられません。ミラーは秘教的なオリジナリティについて包み隠さず語るので、「わからない人にはわからない」という印象が強いです。それは小説でも変わらないでしょう。よって、「あのとき語られた語調や情熱、それこそが彼〔カツィンバリス〕の哲学であり詩だった、今となってはそれを知ることも出来ない」などと書くわけです。圧倒的に現実に対して信を置いていました。というかむしろ、ああいった態度にもまして小説に信を置いていたとなると、想像を絶します。いや、そういう等号や不等号を使うべきではないのかもしれませんが。そもそも、ああいった態度が常に彼〔ミラー〕の文体そのものだったのでしょう。僕も「アジャクシオ短訪」「聖苑《カンポ・サント》」のみ、読みました。これから読み進めたいと思います。クロード・シモンの『歴史』においても、フランス革命期前後の王朝の家系図などにも確か、触れていたと思います。保坂和志はひねくれているので、最初に出てくる登場人物がすなわち主要人物であるとか、いわゆる三人とか定数を中心とした人物のありがちな関係的バランスを崩したいという意図があったのでしょう。そう思うと、割と分かり易いですが効果はあると思います。僕も抜歯をした後の麻酔の効かない痛みに寄り添って孤独に過ごさなければいけない夜の描写については良く覚えています。保坂は他の箇所(確か『明け方の猫』に収録されていた「プレーンソング」以前の短編の「揺籃」)でも「痛みは人を一番弱らせる」といった事を言っていたと思います。具体的にどんな文面だったかは忘れましたが、「お腹が痛いと人はとりあえずどんな思想を持っていようと、どんな欲求を持っていようととりあえずはそれに屈しなければいけない」みたいなニュアンスだったと思います。ぜんぜんそんなニュアンスではなかった可能性もありますが。おそらくしっかりと読み直したら驚愕するのでしょう。僕は記憶力がすこぶる悪いです。脳の血流を増大させれば、少しはマシになるのかもしれませんが……温泉など行って、例えば……。
 僕は今まで新しさ(文体でも人物でも単語でも)について考えつかれた節があるので、今はいかに以前の型を踏むか(あるいは踏みながら新しいとはどんな事態なのか、いとうせいこうの「能」的なものか、ラップの「レキシ」的なものになるのか……)ということに腐心しています。繰り返しになりますが、何で人は新しいものにこんなに拘らなければいけないのか? (答えが半ば以上出かかっている問いとして)何で今になって、新しい生き方を模索しなければならないのか? その模索は彼らと同意義を持てるのか? 何か一つでも参考になる点があるのか? そこまで現状は切羽詰まっていると言えるのか? 言えなければ、新しいものに縋る必要はあるのか?
 実際、私はロブ=グリエが苦しんでいたのと同じように文体に対して苦しめるのか。その辺りの楽しさと苦しさに対して向かえなければ、ここにも答えは齎されないのではないかという予感があります。
 1月29日は、僕の誕生日です。今日で32になります。おめでとうございます。

Pさん

2019年1月28日月曜日

六通目 2019年1月28日

Pさんへ
 
 こんばんは。当初は一週間おきと決めていたはずの返信を、また翌日に返してしまい申し訳ありません。
 Pさんからの五通目がくるまでに、ゼーバルトの『カンポ・サント』をできるだけ読み進めておこうと思ったのですが、元来の怠け癖から始めの「アジャクシオ短訪」と「聖苑」しか読めませんでした。
 それから引き寄せられるように、保坂和志の「残響」の1/5ほどを読み、高橋弘希の『送り火』を読み終えました。「残響」は、磯崎憲一郎がたびたび薦めていたのは知っていましたが、パラパラ立ち読みしたのと冒頭を読むくらいで、長らく積ん読でした。
 僕は、てっきりこの小説は、冒頭に出てくる、ゆかりと啓司の話かと長らく思いこんでいましたが、俊夫と彩子という、ゆかりと啓司が引っ越してきた一軒家の前の居住者の話が、随時挟み込まれたり、気まぐれに早夜香の話になったりと、展開が重層的で驚きました。さらに、俊夫の哲学的考察には心底度肝を抜かれました。以下に、あまりのことに、そこで読むのを止めてしまった箇所を引用します。
 
「世界が完全に物質的に記述されたとしてそれで自分が満足すると思っているわけではなかったが、それでもとりあえずは世界についての完全に物質的な記述を知りたいと思っていた。」(『残響』中公文庫・105頁)
 
 そして、この「記述」は、ゼーバルトの「郷愁」にも呼応すると僕は考えました。『歓待する文学』で小野正嗣が、ゼーバルトの『移民たち』から引用した箇所を孫引きします。
 
「絵を制作していくときに出る塵芥とたえまなく積もる埃のほかは、どんなものも付け加えないことだ、そしてしだいにわかってきたのだが、このたえず積もりつづける埃こそ、自分がこの世でいちばん好きなものである。光よりも空気よりも水よりも、埃はわが身にずっと親しい。埃を払った家ほど我慢のできないものはない。ひと息ごとに物質が解きほぐれ消え失せてできる灰色のなめらかな粉末におおわれて、物たちがそっとくぐもって横たわっていられる場所ほど、自分にとって安堵できるところはない、と。」(『移民たち』白水社・174頁)

「記述」+「郷愁」=「埃」、Pさんからの一通目で「四元素」の話が出ましたが、「真の物質の起源」は「埃」であり、且つそれは「郷愁」を纏って「記述」できるのではないか。
 とにかく、ゼーバルトとの出会いは衝撃的です。これは、ロベルト・ボラーニョの衝撃にも匹敵します。『カンポ・サント』は、後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』みたいだし、僕が敬愛する藤枝静男や古井由吉とも符合すると思います。ぜひとも、『ゼーバルト・コレクション』全七冊を揃えてみたいですね。
 さて、「気紛れ」な読書を経て、「胡散臭さ」の典型のようなひとまずの結論を得て、今回の書簡を終えようと思います。これに付け加えるのなら、この継ぎ接ぎの結論に、「新しさ」をどう接続するのか? そこには「死と生」がどう関わるのか? といった四通目で先延ばしにした疑問が、首を擡げます。
 
松原

2019年1月27日日曜日

五通目 2019年1月27日

松原さんへ

 こんにちは。記憶力とは僕は平坦にもいわゆるタモリ的記憶術くらいにしか考えていませんでした。私が生だの死だの言う時にも、言葉の抽象-具象度への配慮が先で、何を意味しているのかは二の次でした。小説を書く際にはよくこんなような適当なことをやるのですが、何といってよいか、この往復書簡のような場でもそうしてよいのかどうか、批判的に考えることもせずに、こんな事ではロブ=グリエに叱られてしまいますね。『新しい小説のために』において、「すなわち偉大な小説家とか、《天才》とかは、自覚のない、無責任で宿命的な、いやその上いささか痴呆的な怪物とでもいったもので、彼の発する《伝言(メッサージュ)》は読者だけが解読すべきなのである」ということを言っていました。ここで「偉大な小説家」とか《天才》と呼ばれている者が従来の小説家のイメージで、そんなものを捨て去るべきだという文脈で言っているわけです。私達は無我夢中に書いていつの間にか名作が生まれるみたいな(そんで周りの人間、プロデューサーやらマネージャーやらが母親のようにそれを支えてくれるといった)心地の良い幻想を捨て、戦略を練り、スタンドアロンで、狙い撃ちして打倒しなければならないと、僕はこれを読み替えました。似たようなことを、保坂和志が高橋悠治のエッセイを引用して、小林秀雄がモーツァルトについて言っていたことを批判していましたが、今手元にないので正確には引けませんが、モーツァルトが構想さえ出来てしまえば後はアヒルにでも楽譜を書き付ける事が出来ると言ったのを、そうであればその楽譜はアヒルに経由出来る程度の価値しかなかった、という意図の発言だったと思います。アヒルは楽譜を書き付けるために生きているわけでもないので、失礼な話ですが。話は戻りますが、ロブ=グリエの小説論を読んでいる際に、彼の小説は、いろいろな情景がかくまでも細かく、立体的に、そして意味を持たずに存在するということについては、了解できました。では、それはいったいどこに存在していたのか? 彼の小説はあたかも確実にあった記憶を余すところなく報告する、といった雰囲気があります(もっとも、その「報告する」スタイル、「私は確かにこれを聞いたので、聞き手はそれを信じる必要がある」として「物語る」スタイルをも否定するわけですが)。それは彼の否定する「深層」としての「真実」を求める態度と、いったいどこに相違があるのか? これは反語として言っているわけではなく、僕は信用する作家は必ず信用しながら読むことにしているので、そのどこかに肯定すべき箇所があるはずです。また、その周到に組まれた「戦略」とやらは、いったいどこから発想するのか? そのヒントは意外にも「気紛れ」や「胡散臭さ」の中に あるのかもしれませんね。ゼーバルトの『カンポ・サント』も、返信のあったその日に借りてきました。蓮實重彦が新潮の最新号でマルクス・ガブリエルについてケチョンケチョンにけなしていましたね。一日おきに返信を交わしていたから、もう出遅れた感じがあります。明後日の読書会の準備も自分なりに進めておきます。筋肉痛には温かいお風呂に浸かるのが一番です。

Pさん

2019年1月24日木曜日

四通目 2019年1月24日

Pさんへ

 こんにちは。先日、新宿のルノアールで、Pさんのアラン・ロブ=グリエ『新しい小説のために』を冒頭だけ読ませてもらいました。そこでも『サント=ブーヴに反論する』と似た主旨の、凡庸な評論家への手厳しくも爽快な批判がなされていました。この二作は、蓮實重彦の愛読者であれば、にんまりすること請合いですね。
 さて、Pさんからの三通目の終わりに記された「新しい小説が生まれるときの新しさとはいったい何なのでしょうか。それ自体、未決の問題なのではないでしょうか」という問いかけに、僕は僕からの二通目で、この往復書簡のテーマとして掲げた「死と生」の問題を重ね合わせてしまいました。
 しかし、僕はここで思考の碇を下ろさずに、即座に迂回してみたいと思います。僕が三通目の書簡で、さらに強くひっかかったのは、「小説を書くのに必須なのが、記憶力なのではないかと最近思っています」という箇所です。これは僕も最近考えたことです。それには、今月のNHKラジオ第2放送の『歓待する文学』で取り上げられた、W・G・ゼーバルトが大きく影響しています。そこでは講師の小野正嗣がゼーバルトについて、「ノスタルジア=郷愁」の作家であるとしていました。
 それを聴いた時点で僕は、ゼーバルトの著作を『アウステルリッツ』の十数頁しか読んでいませんでした。しかしそれでも僕は、この作家が「ノスタルジア=郷愁」の作家であるという話を聴いて、もっともだと膝を打つことができました。このラジオで語られた「ノスタルジア=郷愁」とは、「記憶」の純化した形態だと思います。(ちなみに、その回は「追憶の悲しみ」というタイトルでした。)
 僕は昨日まで読み込んでいた、高橋弘希の『送り火』を中断して、先だっての新宿のルノアールで、ロブ=グリエの『新しい小説のために』を見せてもらった日の午前中に、紀伊国屋書店で求めたゼーバルト『カンポ・サント』を、今日から読んでみようと思います。その感想は、次にまた述べてみたいです。
 それでは、なんとも手短な書簡になってしまいましたが、Pさんからの返信、楽しみにしています。

松原 

2019年1月23日水曜日

三通目 2019年1月23日

 松原さんへ

 こんにちは。『サント・ブーヴに反論する』を所収した『プルースト評論選I』ちくま文庫を、早速図書館で借りてきました。これから読もうと思います。サント・ブーヴという人の著作をまったく読んだことがないのできちんと読めるかどうか不安です。ついでに図書館の近くのとても品揃えのいい古書店でレヴィナスの『全体性と無限』岩波文庫も購入してきました。今まで被って購入してきた本をついでに買い取りして貰いました。六冊ほど売って八百円になりました。しかしサルトルの『嘔吐』などは、在庫がかさんでいることもあり、値がつかなかったかもしれません。個々の本の買い取り価格については、開示されることはありませんでした。その古書店は、たとえば古井由吉、後藤明生、吉田健一などの作家を集中的に取り扱ったりなどしていて、特に質の良い本を揃えているのであるから、僕もそのラインナップの邪魔にならないようなものを選んで、売ったつもりでした。それが八百円という売値の中に反映されているのかどうか、それはわかりません。一般的に言って、古書店の買い取り価格は定価の四分の一が相場なのではないかという感触を受けています。四分の一の値段で買い取って、その二倍の二分の一の値段で売る事によって、収益を得ているわけです。六冊で八百円というのは、なのでそれなりに健闘している方だと思います。繰り返しますが、それが僕が本の選定をした結果なのかどうかはわかりません。余談が過ぎました。『サント・ブーヴに反論する』より、「芸術にあっては、(少なくとも科学的な意味での)先達も先駆者もいない。一切は個人のうちにあり、その各個人が、芸術や文学の試みを、独力で、最初からやりなおすほかないのだ。先行者たちの作品は、科学の場合のように、後代の者がそのまま利用できる規定の真理を成していない。天才作家といえども、今日のいま、一切のことをしなければならない。彼は、ホメロスよりもはるか先まで進んでいるわけではないのだ」とのことですが、(ホメロスからフィクションの歴史を語り始めるのは、ブランショも『文学空間』で行っていましたね……)この文章の軸は「規定の真理」という部分でしょうか。文学が先行者の作品から後代の者がそのまま利用できる規定の真理を抽出することは出来ないのか? プルーストの作品が先行する文学から分け隔てられているというのも確かに感じますが、果たして完全にそうであるのか? 翻って科学がそうイメージされている公理系をこれが書かれた当時持っていたのか? それは現代に至るまで維持されているのか? それとも更新されているのか? 根本的な構造においてそうされているのか、それともそういう考察はなされていないのか、というのは科学においてなぜ古典的科学と現代的科学に隔てられるのか、それによって古典的ニュートン力学(たとえば)が否定あるいは別の次元の創出によって超克されるに至った理由みたいなものはあるのか? 人為的にそういう道に入ったのかそれとも? 翻って、芸術においてはそういう系譜の切れ目みたいのに関してただひたすら「一切は個人のうちに……」と言えばよいのであるか、それはさすがに肯定されないのではないか、など色々考えさせられます。プルーストの時代の「個人」「個人的」という用語は、どんな響きを持っていたのか。
 次の節に進みますが、「小説は科学論文のように、何らかの新発見がなされるべきだ」と常々考えてきたという所。非常に同意します。イメージ通りのアヴァンギャルドからいかに外れることが出来るのか。小説を統計学のレポート作成装置に流し込むことをいかに防げるのか。
 岡田利規が自伝を書くにあたって『遡行』という題/手法をとり、現在からすこしずつ時期を下って叙述していくという書き方をしています。なぜ私たちは遡行しないのか?
 単に能力的な話をすると、小説を書くのに必須なのが、記憶力なのではないかと最近思っています。記憶とは現前する限りにおいては新しいものなのか? 保坂和志が藤沢周の直感像体質についてあれはラカンの言う現実界と同じものだと言っていたけれども、本当にそうなのか? チェ・ゲバラなど、歴史の歴史性を構成するいくつかの固有名詞があるけれどもそれは作家の固有名詞と同じ機能を有するのか?
 まじめに考えると、新しい小説が生まれるときの新しさとはいったい何なのでしょうか。それ自体、未決の問題なのではないでしょうか。

Pさん

二通目 2019年1月23日

Pさんへ

 こんばんは。さて、またまた雑談の中から生まれた奇妙な企画を、二人で行うことになりましたね。いつまで続くのか皆目見当もつきませんが、やれるところまでやってみましょう。
 では、僕がここで特に考えてみたいことは、やはり「死と生」についてです。これは、Pさんの一通目にも記されていた言葉ですが、僕の人生においての一大テーマであり、それは僕がいままで書き綴ってきた習作群にも色濃く反映されているのだろうと思います。
 それを考えるにつけ、幾人もの先行者たちの成果と挫折を参考にして進めていけたらいいです。しかし、そのためには何度も何度もその問題から大きく迂回しないことには、問題の核心に触れることは不可能でしょう。それだけ難しいテーマを選んでしまったといまになって逡巡し、また「できるだけ多岐に亘りさまざまな問題に光を当てる」こととした、この自由度の高い企画に水を差す恐れもあるのではと、重大な危惧を抱きもするところです。
 それでは、あまり杓子定規になるのも、ブログの性質上つまらなくなるのですが、まずはざっくばらんに、Pさんが追伸で上げた、マルセル・プルーストの『サント=ブーヴに反論する』を初めて読んだ感想を述べさせてもらいます。
 プルーストによるこの批評文で、僕が注目したいのは、科学と芸術の相違についてです。プルーストはこう述べています。「芸術にあっては、(少なくとも科学的な意味での)先達も先駆者もいない。一切は個人のうちにあり、その各個人が、芸術や文学の試みを、独力で、最初からやりなおすほかないのだ。先行者たちの作品は、科学の場合のように、後代の者がそのまま利用できる規定の真理を成していない。天才作家といえども、今日のいま、一切のことをしなければならない。彼は、ホメロスよりもはるか先まで進んでいるわけではないのだ」
 僕は、「小説は科学論文のように、何らかの新発見がなされるべきだ」と考えてきました。でも、この文章やアルチュール・ランボオの『地獄の季節』の一節「科学。新貴族。進歩。世界は進む。なぜ逆戻りはいけないのだろう」などに触れ、その脆弱なアフォリズムはいとも簡単に瓦解するわけです。それは、「小説は自力で過去に遡り、その過去から未来の延長をすべて消す現在そのものにならなければならない」とでも書き換えるべきでしょうか。それとも、「小説は最先端であってはならない」と逆説的に新しい小説を規定するべきでしょうか。
 Pさんは、どうお考えですか? 

松原

2019年1月21日月曜日

一通目 2019年1月21日

松原礼二さんへ

 こんにちは。東京の書店巡りを終えての新幹線の乗り心地は如何でしょうか。東京はこの二日間たいへんに良い気候に恵まれて、良かったですね。道中内輪差などにお気を付けてお帰り下さい。新幹線に乗っていると、地域ごとの気候があまりに違うことに驚かされますね。先日名古屋に向かったときに、途中で雨に打たれたと思ったら、また晴れ渡るなど、晴れている空が一番感じられるのは少し空に雲が差したときです。養老天命反転地に赴いたときも、急に雪が降り始めました。あそこは山に面しているから、平坦な急斜面(?)に接しているというのも新鮮でした。ミトコンドリアに似た断面を持つコンクリートの中に日常的なバスタブやら黒電話風の電話などが埋め込まれている、あるいは新しい展開された(爆縮した)地図がミクロ化した山肌に縫い付けられているといった有様でした。明日には休園(?)するという日に見に行けて幸いでした。岐阜を中心とした中部地方にはやはり何か纏い付いているのでしょうか。老人ホームでは、よく人が亡くなる部屋やフロアなどが「呪われている」という言い方を日常的にします。塩を撒こうか! などという冗談まで飛び交いますが、それだけ死と生の圧迫がなければ、何というか、存在も存在を始めないのではないかという気もします。いわゆるビッグバンの起こる前も、そういった死や生などととても結びつけがたい或るもので充満していたのでしょう。荒川修作の体内にも気焔みたいなものが渦巻いていたのでしょうか。ソクラテス以前の哲学者の間では四元素のいずれが真の物質の起源であるのか、論じられていました。人間の体内には空気的なものと液体的なものと油的なものが循環しているとした中国独自の医学も、解釈の仕様によっては正しかったといえます。しかし、誰が正しいとか正しくないとか判断するのか? 『陶陶酒』は効きますよ。試してみて下さい。気温が低い日が続きます。是非ご自愛下さいませ。

 追伸、 『ボヴァリー夫人』は読みましたか? 『サント・ブーヴに反論する』の話などもしましたが、やはりグーグルマップの誤作動が一番楽しいのではないかという気もします。『新しい小説のために』が復刊してくれれば良いのですが。『盗聴されたヨコシマ』の斡旋、ありがとうございます。『西洋哲学の知 I ギリシア哲学』白水社です。もとは洋書の中世スコラ派までくらいをカヴァーした長篇哲学史のシリーズの一部のようです。フランソワ・シャトレは何気にドゥルーズとも繋がりがあったそうです、偶然ですが。レヴィナスの読書会はいつにしましょうか。『全体性と無限』か、『実存から実存者へ』のどちらかでしょうか。

Pさん