2019年2月5日火曜日

八通目 2019年2月5日

Pさんへ

 こんにちは。こんごは、週1回での遣り取りになりますね。さて、今週の書簡では「死と生」「新しさ」を考えるうえで、いままでに主に取り上げてきた記憶の作家たち、保坂和志、プルースト、ゼーバルトらから一旦離れ、まずはドストエフスキーについて書き、それからさらに「記憶」に戻って考えてみたいです。
 これまでの書簡で、ロシアの作家について言及したことはなく、僕が把握している関連事項としては、早稲田大学の露文科を卒業している後藤明生の名が、チラっと出てきたくらいだと思います。歴史は密に混ざり合っているので、ほかにもロシアとの有機的な繋がりを探せば、いくらでもあるのでしょうが、ここでは深堀りしません。
 さて、ツイッターなどでご存じの方もいると思いますが、僕はいま『カラマーゾフの兄弟』を読書中です。ドストエフスキーは、これまで『貧しき人びと』『白夜』『地下室の手記』といった短篇しか僕は読んできませんでした。どれもとても面白く、且つ興味深く、20代のころ読んだ記憶が残っていますが、この『カラマーゾフの兄弟』は、それらとはまた別種の小説であろうと思います。
 といっても僕が読み進めたのは、およそ三週間で、上巻の「第三編 好色な男たち 三 熱烈な心の告白——詩によせて」までです。つまりは上巻の40%です。この作品は上中下の三巻組で、一冊600頁以上はありますから、全体でいえば、まだ20%くらいでしょうか。第一編は半日で読めてしまったので、全巻一ヶ月で読める! と大見得を切ってしまいましたが、ほかにも読みたい本は山とあるので、これをぜんぶ読み終わるには一年、いやそれ以上かかりそうです。
 べらぼうに面白い、そんなボキャ貧な感想しか浮かんでこないのも事実ですが、気になったことをつらつらと書き留めておきたいです。
 まず、僕がもっとも引っかかった文中の言葉は《神がかり行者》です。これは僕が読んでいる新潮文庫の原卓也の訳文です。光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳では「神がかり」とされています。
 この言葉は、登場人物のソフィア・イワーノヴナとリザヴェータ・スメルジャーシチャヤに使われています。前者はカラマーゾフ家の当主フョードルの二番目の妻であり、後者はフョードルの私生児と噂されるスメルジャコフの生みの親です。
 ここで、兄から教わった一節を引きます。

「僕はひとつの計画をもっています。気ちがいになることです。」
(木野光司『ロマン主義の自我・幻想・都市像—E・T・A・ホフマンの文学世界—』関西学院大学出版会・29頁)

 これはドストエフスキーが、1838年8月9日に実兄に宛てて送った手紙の一部です。
 ドストエフスキーは、空間と忘却の作家だと思います。それに対し、「記憶」は時間芸術です。記憶と忘却は表裏一体であるように、時間と空間も自律した概念のようで紙一重の世界、いわばメビウスの環の世界でしょう。そこには時間的・空間的な永遠性が横たわり、ここにこそ《神がかり行者》がいるのです。つまりこの「気ちがい」とは、記憶と忘却、時間と空間の永遠性を往還するものなのです。それが僕の考える「死と生」「新しさ」だとひとまずはいえます。
 ですから、《神がかり行者》は、ゼーバルト「聖苑」における「コルシカの嘆き女」と「夢遊病者」に相通じるものなのです。また、昨日のバタイユ読書会とも通底するでしょう。

松原

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