2019年7月31日水曜日

三十二通目 2019年7月31日

Pさんへ

 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たのだ。
(マタイによる福音書 10章 34節)
 
 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
(ヨハネの黙示録 22章 12節)
 
 暑い名古屋での『モロイ』読書会、お疲れさまでした。せっかく遠路遙々お越し願っても、CDをまたぞろ4枚奪い、ラスクまで頂戴して、挙げ句の果ては味噌煮込みうどんにまで付き合わせてしまい大変申し訳ありませんでした。これに懲りずまたのお出でをお待ちしております。
 翌日の映画鑑賞会、いかがでしたか。私は寝不足のためけっこうきつかったのですが、お二人が楽しめたのならこれに勝る喜びはありません。
 さて、相変わらず可視・不可視のネット・現実でさまざまな言説が飛び交っていますね。このほとんどは「正しき言説」(オラティオ・レクタ)ではない「アナレクタ」なんでしょうか。私はそうは思いません。どんな「余りもの」「無用もの」でも、「実用」「実際」の範疇からこぼれ落ちたとしても価値はあるのではないか、なんていつもながら愚考します。
 それが喧噪・騒乱の温床になるのでしょうが、前掲した聖書からの引用のようなことにもつながるのかな、と。
 ここ数日の疲れもあってうまく頭が回りませんが、気まぐれに『万引き家族』(2018)を観たのでその感想を書いて終わります。
 
 始めのほうは冷やかし半分で飯を食いながら斜め見して、タイトルの出し方とかセンスないな~、なんて北野武や黒沢清と比べて心底呆れかえっていた。だが、樹木希林が亡くなった辺りから、さらには警察への供述から、どんどん映像世界に引き込まれ、最後には泣いていた。闇の中の光というものだろうか。公の光には決して理解も共感もされない独自の光。それがそもそもの家族。家族とは血縁関係なんかではない。家族はその光を共有できる、生活をともにする、ともに光を信じる関係のことだ。
 まずもって映像に溢れる光の演出を見てほしい。『そして父になる』にはなかった細部に渡る光の描写。心の襞さえ映像に表出している。
 だがその光は脆く儚い。いつなんのタイミングで遮られるかわからない。しかし光は消えないのだ。必ずどこにいても光は届く。闇の中に隠されているのではなく守られてさえいれば。

松原

2019年7月25日木曜日

三十一通目 2019年7月25日

松原さんへ

 そろそろ、ベケットの『モロイ』の読書会が近付きつつありますね。『百年の孤独』同様、長年取り組んできて結局読み通すことの出来なかった本書に再び取りかかり、おそらくは読み終えられるであろう事は、とにかく良かったです。とにかく、というのは、僕としては多少無理があっても『モロイ』の全篇を読み通した上で、現実に会う人々と読書会を展開したかったということがありますが、それは自分の達成感とか見栄なども含まれていてそれほど強い思いでもない上に、現実的に自分自身にしてからが確実に読み終えられようものかわからないということも頭を掠めるからです。僕は保坂和志からベケットに入ったので、保坂が言っているように、読んでいる時の高揚感を維持することと、読了すること、全てを読んで再び本棚にしまい込むこととは全く別の体験であるという彼の立場を多かれ少なかれ支持しなければいけないと感じるし、それは幾分か内面化されている所でもあります。
 ウサギさんとのトークの未公開分で話したのですが、ウサギさんは特定のハマり込む作家というものがいないそうなのですが、僕は一人にハマるとまずそれだけになってしまいます、今はそれほど情熱的に気に入る作家というのは少なくなりましたが。ただ、それを以て読み終わらずに済むといった風に自己弁護するわけにはいきませんね。保坂も、繰り返し読まざるをえないほど引き込まれる読書について、そう言っているわけなので。しかし、それだけじゃない含みもどこかにある。いずれにしろ、読んだことの自分への効果だけを常に見るべきだという事は、彼から学んだことの中にありました。もっとも、功利主義的に読むことも否定するわけですが、「それを読んで、あなたは何を得ましたか?」といったような。問題なのはこの口調でしょうか、フーコーが「お前は一体どこから来た? 名前は? 所属事務所は?」と聞きただす警官の尋問に例えて言っていたような、無言の圧力。まるで悠然と沸き上がる思想の萌芽を摘み取るような……まあそんな屁理屈をこねずに、ベケットの一番の名作と言われる小説を、これからも繰り返し読んでいきたいと思います。それからわかることもあるのでしょう。

Pさん

2019年7月18日木曜日

三十通目 2019年7月18日

Pさんへ

 先日の『百年の孤独』読書会、お疲れさまでした。私はそのあと、グアテマラの短篇を読んだのですが、読書の倦怠感のようなものを覚え、それから、がらりと趣向の異なる矢部嵩「[少女庭国]」を手に取りました。読み終え、次に小松左京「影が重なる時」に移ろうとしましたが、読んでいる途中で先の「[少女庭国]」の感想がつらつらと浮かび、いま話題の小松左京評を書くのは止めて、矢部嵩の今作について考えてみようと思いました。
 いつものようにあらすじは省略させてください。私はこれを読んで始めは現代的な言語表現に違和感を覚え、なかなか読み進めることができませんでした。それを無理して流すことで先へ先へと押し流されるように読んでゆき、そこで「紋切り型」への抵抗の新しいアプローチだったのかな、という感想が小松左京の本を手にしているときに浮かびました。
 どういうことかといえば、これを読んでいると大概の読者は『バトル・ロワイヤル』や『ソウ』なんかの集団殺人物を思い浮かべ、いつ殺し合いが始まるんだろう、どんなイヤミスを味わえるんだろうと、マゾヒスティックな想像をしてしまうものだと思います。僕もそうでした。でも話は違う展開を見せてゆく。その詳細についてはネタバレになるので触れませんが、ここにはアンチクライマクスといえるような、物語批判といえるような、高度な批評性が窺えます。
 それを大江健三郎のレイトワークのような純文学でやるのならまだしも、娯楽性の高いハヤカワSFでやってしまったことが矢部の新しいところかなと考えます。それが私の未読の「少女庭国補遺」や「処方箋受付」でさらに高みへと達しているのだろうと推察します。
 翻って小松左京延いては流行中のリュウ・ジキン『三体』(今日、買いました)はその物語批判を織り込みずみなのか気になるところです。
 下半期、日本並びにアジアのSFを読書会以外では読んでいこうと計画しています。

松原
 

2019年7月10日水曜日

二十九通目 2019年7月10日

松原さんへ

 買ってからほんの少ししか読み進められていなかった中原の『パートタイム・デスライフ』を半分ほど読みました。僕は「紙飛行機」の中でほんの少しだけ中原昌也風に書くことを意識してみていたのですが、やはり本物は違うと思わされます。青木淳悟もそうですが、ある物とか社会制度みたいなものをあげつらって、場面を作り出す。前にも何度か中原昌也が、全く同じ文章を繰り返していたり、ほとんど同じ場面を似たような言い回しで繰り返すところがあります。彼の場合は本当に純粋に文字数稼ぎの為にやっているんでしょうか。漫☆画太郎と同じようなことをしている。痛快ではある……
 中原昌也は何重かの意味で小説が持つ価値みたいなものを打ち消す為に書いていて、全く現実的なつながりを断とうとしているかのようです。小説内における言葉の効果の薄さやずれ、この小説の対外的な立ち位置も、いわば「死んでも何も残さない」かのように、一定の感慨とか、「読んでいて良かった」と思える何物も残さないようにしているというか……しかし単純にそうと言い切れるかはわかりません、ともかくこの、他の、一般にはそう思われているけれども案外そこまで徹底してなされてはいないところのフィクションの自立した姿などが、ヌーヴォーロマンとの共通点といえるでしょうか。これだけ無造作にかつ自由で個性的に小説が書いてみたいものです。
 中原も青木も、デビューしてからまたひと世代経とうとしている、もう次が現れて良い頃なのかもしれない(あるいは、もう現れているのかもしれないが)けれども、僕に関しては、文芸界の状況をいまだにつかみ切れていないような状態です。今まで新しいと思っていたものが、もうすでに古くなっているといった焦りにかられます。焦っていても仕方がありませんが。新しい小説が、まだ書き出せずにいます。書簡の今回分を中原のパロディーにしてみようかと思い立ってしばらく書き進めたのですが、空しくなって途中で反故にしました。それから近所に新しく出来たラーメン屋でたらふくラーメンを食べ、眠くなったので夕方まで寝ていました。
 気合いを入れ直す為、ストイックな作家の伝記でも読むことにします……

Pさん

2019年7月1日月曜日

二十八通目 2019年7月1日

Pさんへ

 今回はTwitterの予告どおり、中原昌也『こんにちはレモンちゃん』(幻戯書房・2013)について書きます。
 一読した率直な感想としては「俺が馬鹿だった。間違ってた」でした。どういうことなのかを順を追って説明するために、まず「フランス現代文学」(主にヌーヴォーロマン)に関する思い出話をさせてください。
 僕が「ヌーヴォーロマン」という単語を知ったのはいまから三十年近く昔になります。僕はたしかまだ高校生になったばかりで、気まぐれにふらっとひとりで岡崎の古本屋めぐりをしました。(後にも先にもこの一回きりでしたが)
 そこでは町沢静夫の精神分析の書籍やチェーホフの『退屈な話・六号病室』(岩波文庫)などを買い求めたと記憶しています。そして、そのなかに何気なくタイトルに惹かれて買った『ヌヴォー・ロマン論』※原文ママ(J・ブロックーミシェル・現代文芸評論叢書)という古めかしい本があったのです。(同叢書からリカルドゥーの良書が出てたなんて知る由もありません)
 いまは手元にないので正確な確認はできないのですが、おぼろげに覚えていることとしては、「ヌーヴォーロマンはよろしくない」「グリンメルスハウゼンのほうがよっぽど革新的だ」「その理由をこれから述べる」といったようなことだったと思います。(間違っていたらごめんなさい)
 僕は単語のかっこよさから「ヌーヴォーロマン」にそこはかとなく期待を抱いていたので(ヌーヴェルヴァーグみたい! というよくあるあれです)とてもがっかりして、続きを読むのを止めてしまいました。
 それから兄の百科事典で「ヌーヴォーロマン」を調べてベケット、ブランショ、ロブ=グリエなどを詳しく知ることになり実際に図書館や書店で探して読んだり見つからなかったりしたのですが、概してよくわからない文学なんだなという甘い認識で終わってしまいました。(悪い早熟の典型です)
 なんだか長くなっていますが、それから時は過ぎて1996年、僕は中原昌也の小説に出合います。それはヌーヴォーロマンと違い一発で虜になるほど引き込まれる世界でした。でもそれから僕も成長して渡部直巳などを読み、どうやら中原はフランス現代文学に多大な影響を受けているらしいぞ、ということに気づかされました。でもまたぞろヌーヴォーロマンに手を出そうとは思わず相変わらず舞城王太郎や佐藤友哉を読むことで日々を忙殺していました。
 それでつい一年前くらいのことです、Twitterで虚體ペンギンさんに出会い、彼の作品ならびにpabulumを読ましてもらい衝撃を受けたのは。まさにそれは僕が若かりしころに見切りをつけたヌーヴォーロマンを彷彿とさせるものだったのです。そしてさらに今年、キュアロランバルトさんの作品を読む機会があり、それにもフランス現代文学の影響が色濃く投影されていました。二人の作品は同じ文学潮流の影響下にありながらまったく別様の代物です。でも僕はどちらにも新しい文学の可能性を感じています。
 さていま一度、中原の小説に話を戻しますと、つまりは中原をひさしぶりに熟読して虚ペンさんやキュアさんの過激な文学熱と同期する衝撃を受けたわけです。僕は最近、安部公房や三島由紀夫を読み、いたく感動しているとどこかで書いたと思いますが、これらの文学の批判として中原が出てきたことをあろうことか失念しておりました! 安部や三島の予定調和なところは阿部和重も批判していることですが、中原の著作は、紋切り型の表現を無意味になる地平まで突き詰めており、一口にいう文学とは似ても似つかない言語的センスで、旧来の純文学をハルキより過激に刷新したと僕は感じていたのでした。そしてこれはヌーヴォーロマンがフランス近代文学に与えた爆発的な打撃と総じて同義なのではないか、と。(手法は異なりますが)
 大げさではなく、虚ペンさんとキュアさんがこれからすくすくと成長して、同人界に留まらず日本文学延いては世界文学に一石を投じるようなものを書いていってほしいです。僕やPさんのおじさん組も彼らに負けず劣らず果敢に文学的冒険をしていきましょう。

松原