2019年4月23日火曜日

十九通目 2019年4月23日

松原さんへ

 僕は哲学の根源という影を追ってギリシャ哲学の、プラトンが著書に遺したソクラテスの言葉の以前にあったとされる哲学者の言葉を追っているのですが、これが哲学の基礎に当たる物なのでしょうか。それとも、教科書的記述に則って哲学史の概要をまずはなぞることが学問の基礎なのでしょうか。その「教科書」のパロディーのような事をした最初期のドゥルーズは、やはりすごいと思います、示唆によって読者に向かって空間を作る手腕というか。引用によってしか伝えないという縛りのもとで、あれほど何かを雄弁に語っている手腕。あの中で、いくつかの軸(進化、社会性、(個と、集団の)生物)を中心として、決してどれにも回収されない、空間としか言いようのない読書、というか知る事の体験は、他のどんな書物でも簡単には得られないものでした。「キリストからブルジョワジーへ」については、反対に、なんとなくの意図は掴めた気がするのですが、それ以上の事についてはわかりませんでした。そういっていいかはわかりませんが、ベケットの初期の評論と同じような読後感でした。「無頭人」のマニフェストを斧で縦に割り切るようにして語っていたバタイユの語り方とは、難解さにおいても、「何を言ってるんだかわからないにしても何かを言われたという衝撃は残る」という感触に比べて、未だに巻かれたクダがまだその辺に渦巻いているといったような感じです。話が逸れましたが、お勧めされた「狂気について」(渡辺一夫)を読み始めました。この著者、翻訳者については全く知らなかったのですが、フランス中世の文学について研究していたということで、興味深く読んでいたのですが、表題作の冒頭から、
「――病患は、キリスト教徒の自然の状態である」
 という重苦しい文言の引用から入っていて、キリスト教と精神分析の繋がりについてあれこれと考えが捗るのを抑えつつも続きを読むと、
「人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀の子でもない存在であり、更にまた、うっかりしていると、ライオンや蛇や狸や狐に似た行動を……」と、人間の狂気の形態を、動物化することに例えているくだりになり、またしても「本能と制度」を思い出さざるを得なくなり……「狂気が持続しない狂人が天才である」という部分は、ニーチェの言う強力な健康状態と似たものと思えば良いのでしょうか……激情や酩酊が狂気に連なるというのは、感覚的にもそう思ってよい物なのでしょうか、やはり理性の対立軸として狂気があるというような……それとも狂気という語自体がそれくらいの意味合いしか持ち得ないのでしょうか、そんな気もしてきますが……
 対話、往復書簡という形式を逸脱しているようで申し訳なく思います。土曜日に延期された読書会の準備も進めたいと思います。僕も変わりやすい気温と気圧にやられて調子の狂った日々が続いていますが、互いに健康に気をつかいながら日々を乗り越えていきましょう。

Pさん

2019年4月16日火曜日

十八通目 2019年4月16日

Pさんへ

 まえにPさんが薦めてくれたフロイトの『自我論集』を手にしました。そこでの「欲動とその運命」の冒頭が、前回の書簡の疑問に対して明瞭な考察になっていると思ったので、少々長くなりますが引用します。文中の「科学」を「文学」に変換してお読みください。
 
 科学というものは、厳密に定義された明晰な基礎概念の上に構築すべきであるという主張が、これまで何度も繰り返されてきた。しかし実際には、いかなる科学といえども、もっとも厳密な科学といえども、このような定義によって始まるものではないのである。科学活動の本来の端緒は、むしろ現象を記述すること、そしてこの現象の記述を大きなグループに分類し、配置し、相互に関連させることにある。この最初の記述の時点から、記述する現象になんらかの抽象的な観念をあてはめることは避けがたい。この抽象的な観念は、新たな経験だけによって得られるのではなく、どこからか持ち込まれたものである。そして経験的な素材を処理する際にも、抽象的な観念を使用することはさらに避けがたいことであり、これが後に科学の基本概念と呼ばれるものとなるのである。こうした観念には、最初はある程度の不確定性さがつきものであり、明確な内容を示すのは不可能なのである。こうした状態では、抽象的な観念の意味を理解するには、経験的な素材に繰り返し立ち戻らなければならない。これらの観念は一見したところ、経験的な素材から取り出したようにみえるが、実は経験的な素材の方が、こうした観念に依拠しているのである。このように厳密な意味では、こうした観念は〈約束ごと〉としての性格を備えたものである。問題は、それが恣意的に選択されたものではなく、経験的な素材との間の重要な関係に基づいて決定されているかどうかである。しかもこの経験的な素材との関係は、明瞭に認識し、証明できるようになる以前に、われわれが〈感じる〉ものである。該当する現象分野を徹底的に研究した後になって初めて、科学的な基礎概念を厳密に把握し、さらに修正を加えながら広範に使用し、矛盾のないものに仕立て上げることができるのである。科学的な基礎概念を定義できるようになるのは、この段階になってからだろう。しかし知識は進歩するものであり、定義も固定したままであることはできない。物理学が見事に実例を示したように、定義によって確定された「基礎概念」の内容も、絶えず変化するのである。
(S・フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫・中山元訳)
 
 あと「狂気」に関しては、渡辺一夫「狂気について」(岩波文庫)が大いに参考になると思います。
 僕は基礎的なことにそろそろしっかりと取り組まないと後がないようです。
 この書簡で尻を叩かれました。Pさんに感謝しています。では返信を楽しみにして、自分の畑を耕したいです。

松原

2019年4月9日火曜日

十七通目 2019年4月9日

松原さんへ

 令和に関しては、今の所騒々しく言い立てること自体が下手を踏むような気がしているので、積極的に触れることはありませんでした。個人的にも思うところや引っかかる点も松原さんのようにはあるわけではないので、今後何事かない限りは触れずに済ませるかもしれません……。
 平凡な問いになりますが、改めて、小説を書くのに必要な学問とは、何なのでしょうか? また、そもそもそんなものはあるのでしょうか?
 以前にもこんな話は、どこかの対話でしたように思います。結論としては、映画など他の世界からの流入が小説には是非とも必要で、小説自体から(を題材にするように)小説を書くといったようなことは、止した方が良い、ということになっていたように思います。しかし、後藤明生のような作家がいる、また、偶然図書館でフォークナーの「八月の光」を再読し、これは読まなければならないという思いに駆られつい借りてしまうなどしましたが……。
「荘子」も図書館で借りて読んでいるのですが、あれを「狂的」の一つの様相とした白川静の「狂字論」という論考があるのですが、僕の読みが浅いだけかもしれませんが、実にマトモな、というか勇気を得られる気宇壮大な生き生きとした普通の話であるように感じました。ニーチェやアルトーのような、引きずり込まれるような狂気、それでも読むべきなのか試されるような読書ではありませんでした。しかし、やっぱり深いところまで入り込めないせいなのかとも思いますが……。
 狂的であるとかないとかいった、帯の文と同じようなレベルにある世評はあまり宛てにもならないとは常々思っていましたが、狂的だと言われている諸々の著者はほとんどがマトモであり、強靭な思考力を持っていると思える人々が多数いて、白川静の「狂字論」に戻ると、中国の文字文明が生まれてから現代に至るまでの途方もない時間の間に、ある時は狂的な存在が正統とされ他が排斥されたり、次の時代には揺り戻しが起こったりなど、「狂」のさまざまな様相が描かれており、うっすらとではありますが、フーコーの「狂気の歴史」を踏まえた発言などもありました。
 保坂が静的な精神のありようとして排除している情報主義を「辞書的記憶」とかとも表現していたように思いますが、白川静はその「辞書」自体のあり方を内側から変えていたといえると思います。しかし、その傾向が強いのは「字統」や特に「字訓」であり(字訓は辞書として、文化の交接点を探る本当に画期的な試みだったと思います)、それらを普及用にまとめ上げた「字通」は、その一書を一人の人間だけで書き上げたというのは覗いて、やはりいわゆる辞典的な記述に戻っていったように見えます。
 一方で、十何人の口伝をまとめたフィクションがあった時代から、現代は基本的に小説は一人で書く(それが表現であるから)、辞書は複数名で書く(規模が大きいから)といった常識がまかり通っているのは何によってだろうか、という疑問も、このあたりのことを考えていると浮かんできます。
 今まで何回か、複数名によって小説を書くという試みをしてきていますが、その辺りのことの具体的な解決にはなりませんでした、やはりそこには「書かれたもの」と「著者」との、時代に深く刻まれた立ち位置みたいなものが反映しているのでしょうか。
 その辺についてはどう思われますか?

Pさん

2019年4月2日火曜日

十六通目 2019年4月2日

Pさんへ
 
 こんばんは。もうこの話題には辟易しておいでのようですが、新元号が昨日「令和」に決定しましたね。私事で恐縮しますが、僕は三月に「松原零時」としてこれからSFを書いてゆくという宣言をツイッターでしました。僕の本名が「礼二」で、それをもじって「零時」と兄が数年前に命名してくれました。「令」「礼」「零」というわけですが、僕は令和には、さすがに違和感を覚えつづけています。それは自分の名前に起因するところからはじまって天皇制や日本の歴史などにも波及する問題でした。ここで侃々諤々の議論になるのは恐ろしいので言及は避けますね。
 さて、自己流の創作術を考えていこうとして、前回僕は恐れ多くも若き日のベケットの書簡から引用しました。「言語に汚名を着せる」というやつですね。これはまさに元号にもいえることで、これからじゃんじゃん文学の言葉で令和に汚名を着せまくりたいものです。
 では、どのような汚名が元号には延いては言語には必要なのか。それはPさんが前回の書簡の終わりで添えた「アカデメイアの再来」とどう関わるのか。そのまえの「山羊の大学」というのは僕が提案した文学勉強会の名称ですが、この書簡がすでに「山羊の大学」みたいな役割になっていますね。でもこの書簡は果たして、言語に汚名を着せることができているのか。汚名といってもワイドショーや週刊誌のようなゴシップネタを口やかましくがなりたてることではないでしょう。それもひとつのやり方ではあるんでしょうけど、そういうものだけではいけない。だから僕はSFというジャンルを使って、言語に汚名を着せようとしています。
 いま「血の春休み」(「青い詩人の手紙」になるかも)を書いています。五十枚ほどまで進みました。これは今秋発行予定の「前衛小説アンソロジー」に掲載するつもりでいます。書き始めたのは昨秋でしたので、SF風味は希薄でジュブナイルといった感じです。いまのところほとんど勢いだけで書き進めているからこれから手直しが必要ですが、前作の「衝突」という私小説めいた短篇と比べれば、おこがましいですが多少はマシになっていると思いたいです。
 SFではサミュエル・R・ディレイニーの「エンパイア・スター」を読んでいる最中ですが、町屋良平の『1R1分34秒』も併せて読んでいます。このSFと純文学の併読というスタイルも言語に汚名を着せるためにやっています。
 町屋は『青が破れる』を読んで感心し、「水面」(『ぼくはきっとやさしい』)で失望し、それから読むのを止めていた作家でした。ですが芥川賞作家になり、また読んでみようかと購入だけしていました。相変わらずのスノッブぶりですが、近しい人の評判もいいのでまたトライする気になったわけです。読み終わったら感想をどこかで書きます。
 読みかけ、積ん読、買い逃し、まったく締まりのない僕ですが、これからどんどんやる気を出して、読書と創作に勤しみたい新年度です。この進歩のない足踏みさ加減が、僕のアカデメイアであり現時点での汚名といえますね。

松原より