2019年8月27日火曜日

三十六通目(終) 2019年8月27日

Pさんへ
 
 先週末、神保町ブックセンターで行われた、クロード・シモン『路面電車』(白水社・平岡篤頼訳)読書会、お疲れさまでした。
 私はそれに伴い2泊3日の東京旅行をしたわけですが、昨夕に帰郷して、鼻の頭は赤く腫れ、左足の腱は痛み、財布は軽く、荷物は極限に重く、いまこうしてポメラを打ち込んでいてもアリス・アドベンチャーズ・アンダーグラウンドでもしてきた心持ちです。
 鼻頭には化粧水を噴霧し、腱にはアンメルツヨコヨコを何度ととなく塗布し、野菜料理でカロリー過多の外食を緩和ケアし、新宿で購入した中古CD8枚傾聴も2周目に突入し、ようやく体調が恢復してきました。
 その折々に谷崎潤一郎『春琴抄』を読み進めてもいます。これはTwitterで偶然知り合った、ざーさんオイルさんの短篇「吊」に触発されて手にしました。ざーさんさんとは9月中旬に『細雪』読書会の企画も立てていて、これは「山羊の大学」として冊子にまとめてみようと思っています。
 さて、去年の夏くらいから人との出合いが加速し、数多くの交流を持つようになってきました。これも2014年の崩れる本棚との邂逅、そして2017年からの生存系読書会がなければ起こらなかった事態といえるでしょう。その点においても、Pさんとウサギノヴィッチさんには感謝しても感謝しきれないです。これからもよろしくお願いします。
 来月末には、去年から散々告知してきた合同誌「前衛小説アンソロジー 何度でも何度でも新しい小説のために」の締め切りもあります。Pさんに私から編集権を委任したわけですが、なにか問題があればなんなりと相談してください。
 これで、今年の1月にスタートした生存書簡も終わりになります。最終回、近況報告と告知だけになってしまい恐縮至極です。私は議論が深まりつつあるところで問題の深層を回避し、あまり結論めいたものを出さないように努めてきた嫌いがありました。多用してきた表記の「」(括弧)は判断の「保留」だったわけです。反省しています。
 これはあくまで一期の終わりであり、完全終結ではない、とまあ先のことはわかりませんけど、いちおう現時点においてはそう宣言しておきたいと思います。
 長丁場、みなさんお付き合いくださり、ありがとうございました。それでは、再見。
 
松原

2019年8月21日水曜日

三十五通目 2019年8月21日

松原さんへ

 夏が終わろうとしています。ドゥルーズの言うように、人の孤独である権利を邪魔しないような共振・共鳴を生み出すというのは、難しい事です。確かに、我々は例えばベケットとか、ヌーヴォーロマンとかいった、小説性を押し詰めたような極を見つめるといった場面に差し掛かっているわけですが、それだけでは何かが欠けていると思わされます。水道料金の民営化に対する政府への意見箱のようなものが今日で締め切られると言う事で、一部で話題になっています。兄が「AIが今後進化していって、神にも等しい存在になり始めたとき、我々はどう振る舞うべきか」と訊いてきたので、「それは計算機科学に属するのでは無く神学に属する」といった返事を、確か行いました。「どう振る舞うべきか」、といった決然とした言い方はしていなかったかも知れません。最近体調が悪く、あまりまとまって物を考えられなくなってきているのですが、自分でそう言いつつ言い訳のように感じられもし、根本的に物を考えられなくなってきているのではないかとも思います。『路面電車』の中でシモンが、ブリューゲルだボッシュだというあの時期の絵画について触れている箇所がありましたが、まさにシモンは良くも悪くも視覚的なヴィジョンをつねに問題にしている作家だと思いました。それだけではないけれども。『狂気の歴史』の冒頭にある、視覚的ヴィジョンにおける狂気の表現と、人文学者のそれと、という箇所。今回の読書会に伴いリカルドゥーという、『テル・ケル』の中心人物の一人の評論を読んでいたのですが、ほとんどがサルトルへの反論で埋め尽くされていてなんだか憔悴しました。いっそのこと散歩でもした方が良いのかも知れませんが、この暑さではどうしようもありません。文芸の未来というより、無印の『未来』というものが、本当に存在する物かどうか、疑問でなりません。
 最後の往信にふさわしくない悲観的な調子に終始してしまいましたが、無軌道に始まった企画ですので、そんな風に終えるのも良いかと思っています。今手につかんでいる物を手がかりにし、ひたすら進んでいくしかないですね。1月から毎週のこと、お付き合いありがとうございました。

Pさん

2019年8月13日火曜日

三十四通目 2019年8月13日


Pさんへ
 
 昨日、私は地元の図書館でグリフィスの『散り行く花』(1919・米)を観ました。館内の視聴ライブラリーでビデオを鑑賞するのは本当に久しぶりのことでした。資料を引っ張りだしてみたところ8年ぶりでしょうか。「2011/10/21」の『いとこ同志』がもっとも新しい記録です。私の記憶が確かならば『二十四時間の情事』が最後だったような気もします。現存の「利用者券」には『タイム・オブ・ザ・ウルフ』『非情の罠』『十九歳の地図』『カーネギーホール』『コード・アンノウン』『突撃』『死の接吻』『イタリア旅行』『蜘蛛女のキス』『悪魔スヴェンガリ』『審判』『2001年宇宙の旅』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『存在の耐えられない軽さ』『パンドラの箱』がありました。散逸したもののなかには『ビッグ・コンボ』があったことくらいしか思いだせません。これからはまた気まぐれに映画を図書館で観ていきたいです。
 さて、前回のPさんの返信で、この「生存書簡」(一期)の今月いっぱいでの終了を伝えていましたね。長期間、お疲れさまでした。8月27日の私からの書簡で一旦終わりとなります。来春には二期の開始を考えていますが、Pさんはラジオやノートなど企画が目白押しで、私のほうもいろいろと身辺騒がしいので、ここらがいい引き際です。
 定期的に読んでくれていた方もおられたようで、連載中はたいへん励みになりました。トートロジーが散見したと反省しますが、今秋には冊子化を予定していますので、よろしければお目汚しに。
 では、私からもPさんからも、あと一回ずつなにがしか未来への問題提起ができればいいです。

松原

2019年8月9日金曜日

三十三通目 2019年8月9日

松原さんへ

 光に満ちた空間でもなく、闇に浸された空間でもない、単にあるだけといった灰色の空間を好んでベケットは選んでいましたね。私達がどういう空間に属しているのか、どうそれを認識しているのかといったことは重要な問題であり、それを描くことは小説の責務の一つであると感じます。個人的なことですが、明日うちの家族が全員久しぶりに実家に集まります。あまり過去をなつかしがってばかりいてもネタ切れになると思いますが、自分のよって来るルーツを振り返ることは創作上においても大きなできごとであるように思います、じつに個人的な事ではありますが。前に語ったことがあるかもしれませんが、松原家の礼二さんのように、私にも表現活動の手本にもなり遠くあおぐような存在になった兄がいます。建築の分野でビックリするような規模の成果をあげているのですが、大学の卒業制作はやはり、わが家のルーツをとても強く意識したものでした。それと同時に社会に対する実にクリティカルな疑問を呈するものでもあり、それゆえに単に作品として受け入れることを拒んだ先生方と賛否が分かれ、結局大賞は逃してしまったとの事です。その作品とコンセプトを見せられた時の衝撃は今に至るまで尾を引き、今でもあの作品を頭に思い描いて手を組んで「何だあれは……」と考え込むことが度々あります。ジャンルは違えどあれに匹敵するような小説が果して自分に書けるのかどうか、兄もそれを望んでいましたが情熱というものから置き去りにされたようになっている今ではそれももう不可能なのではないかと思えてしまいます。信じられないような暑い日が続いています。名古屋の旅においてはずいぶんお世話になりました。名古屋名物を食すことが出来たのは幸いでした。読書会の帰り、暑すぎる道すがらお話ししたところで決めた事ですが、そろそろこの生存書簡に一旦区切りを付けようということになりました。今月中で第一期が終了するという体で、互いに抱えている企画も多くなってきた所で、僕も難儀になってきた所でした。この生存書簡も枚数は今までの所で百枚は超えている目算なので、分量としては十分なのではないかと思います。
 クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』を長い事図書館で借りては返ししていたのですが、哲学書房刊行のものでずいぶん重いので先日文庫版を購入しました。これも『モロイ』『百年の孤独』と同じで、取っかかりの所だけ何度も挑戦しては挫折している本のひとつです。長さもさることながら、余りに書いている内容の散漫としていることが原因だと言い訳のように考えますが、クロソウスキーもニーチェのある重要な部分を引き継ぎ、それに導かれるようにしてそういう書き方を余儀なくされたのでしょう。何が継がれて何が単なる模倣であるのか、直感でわかるような気もするのですがそれも簡単には言えない所です。クロソウスキーの著書のことも、保坂和志の小説論から知りました。そろそろ、何かに従うということにけりをつける頃かもしれません。
 最近、読書会を、それも大部のものを相手取りつづけていることによって、本は一回限り読むのではわからない取り逃す所が山ほどあり、これから何度も読むことになる本の最初の一回を読んでいるのだということ、読書とはそういうものであるということが段々にわかりつつあります。気の長い、業の深い話だと思います。自分自身の言葉だけで語ることは、どうにも薄っぺらくなりますね。それでも何かを得たいと思っています。

Pさん

2019年7月31日水曜日

三十二通目 2019年7月31日

Pさんへ

 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たのだ。
(マタイによる福音書 10章 34節)
 
 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
(ヨハネの黙示録 22章 12節)
 
 暑い名古屋での『モロイ』読書会、お疲れさまでした。せっかく遠路遙々お越し願っても、CDをまたぞろ4枚奪い、ラスクまで頂戴して、挙げ句の果ては味噌煮込みうどんにまで付き合わせてしまい大変申し訳ありませんでした。これに懲りずまたのお出でをお待ちしております。
 翌日の映画鑑賞会、いかがでしたか。私は寝不足のためけっこうきつかったのですが、お二人が楽しめたのならこれに勝る喜びはありません。
 さて、相変わらず可視・不可視のネット・現実でさまざまな言説が飛び交っていますね。このほとんどは「正しき言説」(オラティオ・レクタ)ではない「アナレクタ」なんでしょうか。私はそうは思いません。どんな「余りもの」「無用もの」でも、「実用」「実際」の範疇からこぼれ落ちたとしても価値はあるのではないか、なんていつもながら愚考します。
 それが喧噪・騒乱の温床になるのでしょうが、前掲した聖書からの引用のようなことにもつながるのかな、と。
 ここ数日の疲れもあってうまく頭が回りませんが、気まぐれに『万引き家族』(2018)を観たのでその感想を書いて終わります。
 
 始めのほうは冷やかし半分で飯を食いながら斜め見して、タイトルの出し方とかセンスないな~、なんて北野武や黒沢清と比べて心底呆れかえっていた。だが、樹木希林が亡くなった辺りから、さらには警察への供述から、どんどん映像世界に引き込まれ、最後には泣いていた。闇の中の光というものだろうか。公の光には決して理解も共感もされない独自の光。それがそもそもの家族。家族とは血縁関係なんかではない。家族はその光を共有できる、生活をともにする、ともに光を信じる関係のことだ。
 まずもって映像に溢れる光の演出を見てほしい。『そして父になる』にはなかった細部に渡る光の描写。心の襞さえ映像に表出している。
 だがその光は脆く儚い。いつなんのタイミングで遮られるかわからない。しかし光は消えないのだ。必ずどこにいても光は届く。闇の中に隠されているのではなく守られてさえいれば。

松原

2019年7月25日木曜日

三十一通目 2019年7月25日

松原さんへ

 そろそろ、ベケットの『モロイ』の読書会が近付きつつありますね。『百年の孤独』同様、長年取り組んできて結局読み通すことの出来なかった本書に再び取りかかり、おそらくは読み終えられるであろう事は、とにかく良かったです。とにかく、というのは、僕としては多少無理があっても『モロイ』の全篇を読み通した上で、現実に会う人々と読書会を展開したかったということがありますが、それは自分の達成感とか見栄なども含まれていてそれほど強い思いでもない上に、現実的に自分自身にしてからが確実に読み終えられようものかわからないということも頭を掠めるからです。僕は保坂和志からベケットに入ったので、保坂が言っているように、読んでいる時の高揚感を維持することと、読了すること、全てを読んで再び本棚にしまい込むこととは全く別の体験であるという彼の立場を多かれ少なかれ支持しなければいけないと感じるし、それは幾分か内面化されている所でもあります。
 ウサギさんとのトークの未公開分で話したのですが、ウサギさんは特定のハマり込む作家というものがいないそうなのですが、僕は一人にハマるとまずそれだけになってしまいます、今はそれほど情熱的に気に入る作家というのは少なくなりましたが。ただ、それを以て読み終わらずに済むといった風に自己弁護するわけにはいきませんね。保坂も、繰り返し読まざるをえないほど引き込まれる読書について、そう言っているわけなので。しかし、それだけじゃない含みもどこかにある。いずれにしろ、読んだことの自分への効果だけを常に見るべきだという事は、彼から学んだことの中にありました。もっとも、功利主義的に読むことも否定するわけですが、「それを読んで、あなたは何を得ましたか?」といったような。問題なのはこの口調でしょうか、フーコーが「お前は一体どこから来た? 名前は? 所属事務所は?」と聞きただす警官の尋問に例えて言っていたような、無言の圧力。まるで悠然と沸き上がる思想の萌芽を摘み取るような……まあそんな屁理屈をこねずに、ベケットの一番の名作と言われる小説を、これからも繰り返し読んでいきたいと思います。それからわかることもあるのでしょう。

Pさん

2019年7月18日木曜日

三十通目 2019年7月18日

Pさんへ

 先日の『百年の孤独』読書会、お疲れさまでした。私はそのあと、グアテマラの短篇を読んだのですが、読書の倦怠感のようなものを覚え、それから、がらりと趣向の異なる矢部嵩「[少女庭国]」を手に取りました。読み終え、次に小松左京「影が重なる時」に移ろうとしましたが、読んでいる途中で先の「[少女庭国]」の感想がつらつらと浮かび、いま話題の小松左京評を書くのは止めて、矢部嵩の今作について考えてみようと思いました。
 いつものようにあらすじは省略させてください。私はこれを読んで始めは現代的な言語表現に違和感を覚え、なかなか読み進めることができませんでした。それを無理して流すことで先へ先へと押し流されるように読んでゆき、そこで「紋切り型」への抵抗の新しいアプローチだったのかな、という感想が小松左京の本を手にしているときに浮かびました。
 どういうことかといえば、これを読んでいると大概の読者は『バトル・ロワイヤル』や『ソウ』なんかの集団殺人物を思い浮かべ、いつ殺し合いが始まるんだろう、どんなイヤミスを味わえるんだろうと、マゾヒスティックな想像をしてしまうものだと思います。僕もそうでした。でも話は違う展開を見せてゆく。その詳細についてはネタバレになるので触れませんが、ここにはアンチクライマクスといえるような、物語批判といえるような、高度な批評性が窺えます。
 それを大江健三郎のレイトワークのような純文学でやるのならまだしも、娯楽性の高いハヤカワSFでやってしまったことが矢部の新しいところかなと考えます。それが私の未読の「少女庭国補遺」や「処方箋受付」でさらに高みへと達しているのだろうと推察します。
 翻って小松左京延いては流行中のリュウ・ジキン『三体』(今日、買いました)はその物語批判を織り込みずみなのか気になるところです。
 下半期、日本並びにアジアのSFを読書会以外では読んでいこうと計画しています。

松原