2019年2月12日火曜日

九通目 2019年2月12日

松原さんへ

 一週間はあっという間に来てしまうとも言えるしこの一週間のうちにいろいろな事が起こったとも言えますね。仕事が忙しくなり読書がはかどらなかった私を尻目に徘徊のさんと共に礼二さんがフォロワーに対して猛烈な本のプッシュを行っていたのが印象的でした。そのムーヴメントに僕もあやかり、一冊本を推薦していただきましたね。飯島耕一の『暗殺百美人』、ぜひとも読ませていただきたいと思います。
 さて、話題はロシア文学へ回り道をする、それもよりによってドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』に、ということでありますが、僕はこの作品を都合三回は通読している計算になるはずなのに、何も覚えていないといってよい状況です。すでにお読みになっているかどうかわかりませんが、「大審問官」の章が一番あの小説を読んでいて良かったと思える箇所でした。実際に読まれた確証を得てから、ご感想を聞きたいものです。小説が表現できる幅と多様さに驚いたものの、今に至るとチェーホフもそうですが、小説が何であるかとか、小説の持つ時空について考えが改まるという所まで影響は伸びて来ませんでした。何年かぶりに読み直してみたら、新しく立ち上る印象もあるのでしょうか。チェーホフの「かもめ」、「三人姉妹」の頽落した、何の興味もない劇中劇とか誰に向けるともなく喋り続ける老人の姿なども忘れられません。やはりゴーゴリでしょうか。念入りにハッタリをかます為にポマードを頭に塗りたくる『死せる魂』の場面や(僕も『死せる魂』の中巻だったか下巻だったかに差し掛かったところで止まってしまっています)、似たような場面がドストエフスキーの他の小説にもあったように記憶していますが、一銭でも支出を惜しむ地主の姿や「チョウザメの卵」という今でいうとキャビアのことでしょうが、執拗な料理の描写など忘れられません。魚卵全般が現在では高価な食材になってしまいました。また、チェーホフが日記の中でドストエフスキーについてたった一言だけ触れた言葉が「冗長である。」の本当に一言であったというエピソードなど、それらが一挙に後藤明生に流れ込み、目の前を明るくするという事もあるのかもしれませんね。キリストの言葉について、田中種助(田中小実昌の父)が何よりも言葉であるよりも光であったと言っていました。光景が全く具体的でないのに言葉より具体的な光とはいったい何なのか、聖職者でない私どもが思いもよらない言葉と存在に関する経験なのでしょうか。ここでドストエフスキーが死刑の瞬間に覚えたであろう癲癇発作の直前の閃光について思いを致すべきでしょうか。ドストエフスキーはやはり瞬間の作家だったのではないかと思います。いや、彼はどうであるとか、そんな断定的な事はせずにただ読めば良いのかもしれませんね。
 岐阜の地はその土地の広漠たるありさまとその地の作家の思考の粘り強さがロシアと近いと思います。フランスの流麗、純然たる伝統を維持しつつ急速に新しくなる力を得ているのとは対照的に、ロシアでは日本人が英語の外来語を多用するようにフランス語の外来語を多用する人物が俗物として出てきたりしますね。《神がかり行者》については、全く記憶にありませんでした。
『新しい小説のために』も『カンポ・サント』も『新しい人よ眼ざめよ』も、『いざ最悪の方へ』も、読み続けています。

Pさん

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