2019年3月26日火曜日

十五通目 2019年3月26日

 松原さんへ

 ベケットの、何かを書くという際に取る態度は、本当に徹底していると思います。先日読んだ『いざ最悪の方へ』の解説において、ベケットがある時期から英語とフランス語、二つの言語で同じ小説を書いていたことについて、言語の物質生とは何か、ということに触れながら、語っていました。訳者自身がその解説を書いているのですが、そのベケットの、自作の英→フへの、あるいは逆の「翻訳」という行為は、他人がやるような翻訳ではなくて、ある意味内容が、等しく英語とフランス語に翻訳されているかのようだ、という意味のことを書いていました。伝わりますでしょうか?
   翻 (内的言語) 翻
英語 ← ベケット語 → フランス語
 完全な内的言語などというものもないし、ことはこれほど単純ではないとは思いますが。
 ベケットの後期の作品のじっさいの執筆順は、英からフ、フから英とはっきりと決まっていたようですが、 それでも、私達はその双方をまた翻訳された日本語によってしか内容を把握できないのがもどかしいですが、あの、意味からさまざまな距離を取りながら進む独特の文体について考えると、しかり、しかりだなあという気になってきます。
 翻って、自分の書き方はといえば、常にさしたる計画もなく言語に対する態度決定の表明などもなく、「書いていればそのうち面白くなるだろう」というようなことばっかり考えているので、ここ(ベケット)から、何か自分の書くことに対しての態度と引き寄せて考えようというのは、なかなか難しいことでありますが……。
 ただ自己正当化を許すとすれば、自分が小説を書く際に考えていることは、その即興生についてで、いかに自分がかつて考えていたものから外れるのか、思ってみなかったことが徐々に現れるのか、期待して書いている、ということが言えると思います。そうすることによってベケットが言語に大きな槌をふるったように、いかに小説という枠組みに衝撃を与えられるのかとなると、それこそ尻込みしたくなるような難問のように思えます……。
 ヒントとなるのは、ジョン・ケージやクセナキスの作曲における偶然性のアプローチでしょうか。ジョン・ケージのエッセイの中にいい言葉があったように思いますが、今手元にないので、また探してみます。
 季節の変わり目であり、職場でも身の回りでも何人もの人が体調を崩しています。お体お気を付け下さい。お母様はお元気にされているでしょうか? 山羊の大学の方、どうしますか? 漢代のある学者は、書物の語を書き写し、舌で舐めてその語を覚えたそうです。僕も何らかの一般常識レベル以上の学を身につけてみたいです。アカデメイアの再来、無頭人のような秘密結社の構成、ヘラクレイトスから続く炎の思考……。

Pさん

2019年3月19日火曜日

十四通目 2019年3月19日

Pさんへ

 こんにちは。この書簡を始めて早いもので2ヶ月が経ちましたね。振り返ってみると、「おらたち、アラン・ロブ=グリエみたいになるだ!」と鼻息荒く宣っていたあの新宿のルノアールで、この企画を立ち上げたのが、こっぱずかしくなるほど怠惰な日常を送ってしまっている僕ですが、Pさんは仕事と文学の両立、頑張ってらっしゃるとお見受けします。
 さて、僕のバイトの件、いまだに採用通知がこないところをみると、明らかに跳ねられたようです。これはもうラストチャンスみたいなもので、これで未来永劫、僕の賃労働の明るい未来は絶たれてしまったと、腹を決めて市井の文学者になるほか道は残されていないようです。というと深刻すぎるので、書店員として活躍する夢はしばらく寝かしておいて、健康管理を維持しつつ、気を引きしめ直して、文学の勉強に邁進したい所存です。
 前置きが長くなりました。では、今回の本題に移ります。いままでは主に読んだ本について意見を交わしてきましたが、これから数回に亘って、小説の実作、作述についてPさんと自己の体験を踏まえながら考えていきたいです。
 まず、なにから始めるかまったくの手探り状態ですので、先週の土曜日に僕が聴いて感動した小野正嗣のラジオ『歓待する文学』からベケットの手紙の一節を、六通目に続いて孫引きして、次回のPさんの返信に繋げたいと思います。

「ちゃんとした英語で書くことが、実際、僕にはだんだんむずかしくなっています。というか無意味にすら思えるのです。そして僕の言語がますますベールのように感じられるのです。そのベールの向こうにあるもの(あるいは無)に到達するには、それを引き裂かねばなりません。文法に文体! そんなものは、僕にとってはビーダーマイヤー風の水着とか紳士の平常心なみに的はずれなものになってしまった感じなのです。仮面なのです。言語を効果的にいじめ抜くことが、その最良の使い方になる時代が来るのを——ありがたいことにすでにそれを経験しているグループもあるようです——願うばかりです。言語をいっぺんに捨て去ることはできないのですから、少なくとも言語に汚名を着せるためにできることはなんだってやるべきです。それが無であれ何であれ向こう側に潜んでいるものがしみ出してくるまで、穴を開け続けること——今日の作家にとって、これ以上高い目標はないと思うのです。」
(一九三七年七月九日、アクセル・カウン宛・小野正嗣訳) 
 
松原より

2019年3月12日火曜日

十三通目 2019年3月12日

松原さんへ

「グスコーブドリの伝記」、不勉強につき読んでいなかったので、これをきっかけに読ませて頂きました。確かにおっしゃる通りだと思います。書簡の最後の方の話は、あの頃当然のようにNHKで何度も流れた「花は咲く」の記憶と重なります。様々な現実を覆うものとしての物語、美談の数々、そしてあらゆる人々の考えを一つの方向に束ねる歌。
 震災が起こった時に(あの日本全土が浮動し不安定になり誰もが正しい言葉を探すというきわめて危ない時期に)僕が信じられる言葉だと思ったのは高橋源一郎と佐々木中、坂口恭平と江頭2:50のそれでした。江頭2:50は自身の「ピーピーピーするぞ!」というラジオ番組において、東日本大震災のあった直後、支援物資がうまく被災地に届いていないという情報を聞いたというただそれだけの動機から、自身でトラックの調達から支援物資の受け取り、検問をくぐりとある老人ホームへその物資を届けるまで行ったというエピソードを明かしていました。
 坂口恭平も、自分の思いつきを自力で行い、いわば社会を変えようというどこかヒーロー気質のところがあります。グスコーブドリと同じ、「私達は何も出来ることがない」という無力感を幻想によって緩和させる麻酔の役割をするエピソードであり、それにしがみついていたのかもしれませんね。坂口恭平がツイッターで喧伝している「作業療法としての、小説を書くこと」、その実践、作品である「カワチ」という小説がもうすぐ二千枚をこえようとしているというエピソードを見て感心し、それに感化されてこの「書簡」を計画したのでした。その辺りのことは先日、非公開で行った保坂和志にまつわる対話の中でも最後の方で触れましたね。やはり自分の起源にあたる作家については、透明に語ることはできないのだなと改めて思いました。今まで課題になっていた十何冊かの本を保留にして、今サルトルの『自由への道』、『嘔吐』などを、とある因縁から読みはじめています。突然の激しい雨が何度か降り、そろそろ冬を抜けたなという感じが漂っていますね。偶然にも、うちの母の誕生日もつい先日あったばかりでした。互いに孝行しないといけませんね。アルバイトの件、首尾よく通ることを期待しています。

Pさん

P.S.あんまり具体的な、小説、文学にかんする話が薄かった気がするので、今読んでいる本について付記します。ツイッターでも公表しましたが3月の課題本は珍しく読書会のはるか前に読み終えました。ホセ・ドノソは他の作品も含めて読んだことがなかったので、ガルシア=マルケスなどと比較して考えて見たり(ガルシア=マルケスは、ラテンアメリカ文学というものの中でも、マジックリアリズムと言われる小説の中でも、特異だったのではないかと、今作から振り返って思いました)、ここでもやはり情景と言葉との間にある距離について考えたりしました(つまりは、そう言ってしまえば何か言ったような気分になるというだけのことかもしれませんね……)。あんまりここで感想について話すと約十日後の読書会当日の楽しみが減るのでこれくらいにします。しかし、読んでいる最中に散発的に思っていたことは、思いの外どんどん抜け落ちて行ってしまいますね。自分の書く小説にかんする計画の方は、全く立てられていないので、かなり焦っています。しかし、いろいろな企画を通して、いくつかきっかけはつかんだような気分でいますが……これも実践しなければ意味がないですね……。

2019年3月6日水曜日

十二通目 2019年3月5日

Pさんへ

 こんばんは。今日は母の誕生日で、明日は啓蟄です。啓蟄とは、「冬ごもりの虫がはい出る意」と『広辞苑』(第七版)にありました。僕もその虫に倣ってか、衝動的に近所の書店のバイト面接を受けてきました。結果はまだ出ていませんから、ここで吉報をお知らせできるといいですね。
 さて、前回のPさんからの書簡の一節「言葉から意味へのすごく慎重な滑り行き」への僕なりの返答をしたいと考え、ある読みかけの短篇を取り上げてみようと思いつきました。
 それは、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」です。この作品は、東日本大震災後、原発問題が取沙汰されたときに「天声人語」で知りました。いやそのまえに、高橋源一郎経由でタイトルだけ覚えていたような気もします。まあ、それはともかく、どうやらこの短篇には、人知を超える災害と自己犠牲について書かれているようだ、と記憶していました。これから実際に読んだ感想を書きますが、この迂回がPさんへの真摯な返答になるかはいまはまだ不確かです。そういうわけなので、どうかお付き合いください。
 ここであらすじをまとめてしまうのも野暮なので省略させてもらいますが、一読してこの短篇は美談で泣かせる話である、と思ってしまいます。全篇に亘ってジブリアニメっぽい印象を受けるし、老若男女が感動できる要素に溢れています。でも僕は冒頭に上げた「言葉から意味へのすごく慎重な滑り行き」という一節を再度念頭に置き直して考えてみました。
 この短篇において忘れてならないのは、自然の残酷な非情さです。これによってひとも非情さを極めるものです。それは、物語という感動の装置からは想像できないくらいに遠くにある非情さです。しかし、ひとはそれを忘れてしまえる生き物です。言葉を操って、意味を使い、非情な自然に物語を与え、安心し満足することができる生き物です。震災の場合もそうです。想定外の大災害をまえに、ひとは物語に救いを求めます。それは、いわば麻酔です。べつにそれは報道だろうが、ドキュメンタリーだろうが、ネットだろうが同じことです。賢治のこの物語は、それらを明るみにさせる、徹底的な自然の怖ろしい描写と、人間のもつ奇妙で逞しくて楽観的すぎる精神構造をも浮き彫りにしているように思えます。
 Pさんもぜひこの機会に、震災について考えてみてください。

松原