2019年3月6日水曜日

十二通目 2019年3月5日

Pさんへ

 こんばんは。今日は母の誕生日で、明日は啓蟄です。啓蟄とは、「冬ごもりの虫がはい出る意」と『広辞苑』(第七版)にありました。僕もその虫に倣ってか、衝動的に近所の書店のバイト面接を受けてきました。結果はまだ出ていませんから、ここで吉報をお知らせできるといいですね。
 さて、前回のPさんからの書簡の一節「言葉から意味へのすごく慎重な滑り行き」への僕なりの返答をしたいと考え、ある読みかけの短篇を取り上げてみようと思いつきました。
 それは、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」です。この作品は、東日本大震災後、原発問題が取沙汰されたときに「天声人語」で知りました。いやそのまえに、高橋源一郎経由でタイトルだけ覚えていたような気もします。まあ、それはともかく、どうやらこの短篇には、人知を超える災害と自己犠牲について書かれているようだ、と記憶していました。これから実際に読んだ感想を書きますが、この迂回がPさんへの真摯な返答になるかはいまはまだ不確かです。そういうわけなので、どうかお付き合いください。
 ここであらすじをまとめてしまうのも野暮なので省略させてもらいますが、一読してこの短篇は美談で泣かせる話である、と思ってしまいます。全篇に亘ってジブリアニメっぽい印象を受けるし、老若男女が感動できる要素に溢れています。でも僕は冒頭に上げた「言葉から意味へのすごく慎重な滑り行き」という一節を再度念頭に置き直して考えてみました。
 この短篇において忘れてならないのは、自然の残酷な非情さです。これによってひとも非情さを極めるものです。それは、物語という感動の装置からは想像できないくらいに遠くにある非情さです。しかし、ひとはそれを忘れてしまえる生き物です。言葉を操って、意味を使い、非情な自然に物語を与え、安心し満足することができる生き物です。震災の場合もそうです。想定外の大災害をまえに、ひとは物語に救いを求めます。それは、いわば麻酔です。べつにそれは報道だろうが、ドキュメンタリーだろうが、ネットだろうが同じことです。賢治のこの物語は、それらを明るみにさせる、徹底的な自然の怖ろしい描写と、人間のもつ奇妙で逞しくて楽観的すぎる精神構造をも浮き彫りにしているように思えます。
 Pさんもぜひこの機会に、震災について考えてみてください。

松原
  

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