2019年3月19日火曜日

十四通目 2019年3月19日

Pさんへ

 こんにちは。この書簡を始めて早いもので2ヶ月が経ちましたね。振り返ってみると、「おらたち、アラン・ロブ=グリエみたいになるだ!」と鼻息荒く宣っていたあの新宿のルノアールで、この企画を立ち上げたのが、こっぱずかしくなるほど怠惰な日常を送ってしまっている僕ですが、Pさんは仕事と文学の両立、頑張ってらっしゃるとお見受けします。
 さて、僕のバイトの件、いまだに採用通知がこないところをみると、明らかに跳ねられたようです。これはもうラストチャンスみたいなもので、これで未来永劫、僕の賃労働の明るい未来は絶たれてしまったと、腹を決めて市井の文学者になるほか道は残されていないようです。というと深刻すぎるので、書店員として活躍する夢はしばらく寝かしておいて、健康管理を維持しつつ、気を引きしめ直して、文学の勉強に邁進したい所存です。
 前置きが長くなりました。では、今回の本題に移ります。いままでは主に読んだ本について意見を交わしてきましたが、これから数回に亘って、小説の実作、作述についてPさんと自己の体験を踏まえながら考えていきたいです。
 まず、なにから始めるかまったくの手探り状態ですので、先週の土曜日に僕が聴いて感動した小野正嗣のラジオ『歓待する文学』からベケットの手紙の一節を、六通目に続いて孫引きして、次回のPさんの返信に繋げたいと思います。

「ちゃんとした英語で書くことが、実際、僕にはだんだんむずかしくなっています。というか無意味にすら思えるのです。そして僕の言語がますますベールのように感じられるのです。そのベールの向こうにあるもの(あるいは無)に到達するには、それを引き裂かねばなりません。文法に文体! そんなものは、僕にとってはビーダーマイヤー風の水着とか紳士の平常心なみに的はずれなものになってしまった感じなのです。仮面なのです。言語を効果的にいじめ抜くことが、その最良の使い方になる時代が来るのを——ありがたいことにすでにそれを経験しているグループもあるようです——願うばかりです。言語をいっぺんに捨て去ることはできないのですから、少なくとも言語に汚名を着せるためにできることはなんだってやるべきです。それが無であれ何であれ向こう側に潜んでいるものがしみ出してくるまで、穴を開け続けること——今日の作家にとって、これ以上高い目標はないと思うのです。」
(一九三七年七月九日、アクセル・カウン宛・小野正嗣訳) 
 
松原より

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