2019年4月16日火曜日

十八通目 2019年4月16日

Pさんへ

 まえにPさんが薦めてくれたフロイトの『自我論集』を手にしました。そこでの「欲動とその運命」の冒頭が、前回の書簡の疑問に対して明瞭な考察になっていると思ったので、少々長くなりますが引用します。文中の「科学」を「文学」に変換してお読みください。
 
 科学というものは、厳密に定義された明晰な基礎概念の上に構築すべきであるという主張が、これまで何度も繰り返されてきた。しかし実際には、いかなる科学といえども、もっとも厳密な科学といえども、このような定義によって始まるものではないのである。科学活動の本来の端緒は、むしろ現象を記述すること、そしてこの現象の記述を大きなグループに分類し、配置し、相互に関連させることにある。この最初の記述の時点から、記述する現象になんらかの抽象的な観念をあてはめることは避けがたい。この抽象的な観念は、新たな経験だけによって得られるのではなく、どこからか持ち込まれたものである。そして経験的な素材を処理する際にも、抽象的な観念を使用することはさらに避けがたいことであり、これが後に科学の基本概念と呼ばれるものとなるのである。こうした観念には、最初はある程度の不確定性さがつきものであり、明確な内容を示すのは不可能なのである。こうした状態では、抽象的な観念の意味を理解するには、経験的な素材に繰り返し立ち戻らなければならない。これらの観念は一見したところ、経験的な素材から取り出したようにみえるが、実は経験的な素材の方が、こうした観念に依拠しているのである。このように厳密な意味では、こうした観念は〈約束ごと〉としての性格を備えたものである。問題は、それが恣意的に選択されたものではなく、経験的な素材との間の重要な関係に基づいて決定されているかどうかである。しかもこの経験的な素材との関係は、明瞭に認識し、証明できるようになる以前に、われわれが〈感じる〉ものである。該当する現象分野を徹底的に研究した後になって初めて、科学的な基礎概念を厳密に把握し、さらに修正を加えながら広範に使用し、矛盾のないものに仕立て上げることができるのである。科学的な基礎概念を定義できるようになるのは、この段階になってからだろう。しかし知識は進歩するものであり、定義も固定したままであることはできない。物理学が見事に実例を示したように、定義によって確定された「基礎概念」の内容も、絶えず変化するのである。
(S・フロイト『自我論集』ちくま学芸文庫・中山元訳)
 
 あと「狂気」に関しては、渡辺一夫「狂気について」(岩波文庫)が大いに参考になると思います。
 僕は基礎的なことにそろそろしっかりと取り組まないと後がないようです。
 この書簡で尻を叩かれました。Pさんに感謝しています。では返信を楽しみにして、自分の畑を耕したいです。

松原

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