2019年4月9日火曜日

十七通目 2019年4月9日

松原さんへ

 令和に関しては、今の所騒々しく言い立てること自体が下手を踏むような気がしているので、積極的に触れることはありませんでした。個人的にも思うところや引っかかる点も松原さんのようにはあるわけではないので、今後何事かない限りは触れずに済ませるかもしれません……。
 平凡な問いになりますが、改めて、小説を書くのに必要な学問とは、何なのでしょうか? また、そもそもそんなものはあるのでしょうか?
 以前にもこんな話は、どこかの対話でしたように思います。結論としては、映画など他の世界からの流入が小説には是非とも必要で、小説自体から(を題材にするように)小説を書くといったようなことは、止した方が良い、ということになっていたように思います。しかし、後藤明生のような作家がいる、また、偶然図書館でフォークナーの「八月の光」を再読し、これは読まなければならないという思いに駆られつい借りてしまうなどしましたが……。
「荘子」も図書館で借りて読んでいるのですが、あれを「狂的」の一つの様相とした白川静の「狂字論」という論考があるのですが、僕の読みが浅いだけかもしれませんが、実にマトモな、というか勇気を得られる気宇壮大な生き生きとした普通の話であるように感じました。ニーチェやアルトーのような、引きずり込まれるような狂気、それでも読むべきなのか試されるような読書ではありませんでした。しかし、やっぱり深いところまで入り込めないせいなのかとも思いますが……。
 狂的であるとかないとかいった、帯の文と同じようなレベルにある世評はあまり宛てにもならないとは常々思っていましたが、狂的だと言われている諸々の著者はほとんどがマトモであり、強靭な思考力を持っていると思える人々が多数いて、白川静の「狂字論」に戻ると、中国の文字文明が生まれてから現代に至るまでの途方もない時間の間に、ある時は狂的な存在が正統とされ他が排斥されたり、次の時代には揺り戻しが起こったりなど、「狂」のさまざまな様相が描かれており、うっすらとではありますが、フーコーの「狂気の歴史」を踏まえた発言などもありました。
 保坂が静的な精神のありようとして排除している情報主義を「辞書的記憶」とかとも表現していたように思いますが、白川静はその「辞書」自体のあり方を内側から変えていたといえると思います。しかし、その傾向が強いのは「字統」や特に「字訓」であり(字訓は辞書として、文化の交接点を探る本当に画期的な試みだったと思います)、それらを普及用にまとめ上げた「字通」は、その一書を一人の人間だけで書き上げたというのは覗いて、やはりいわゆる辞典的な記述に戻っていったように見えます。
 一方で、十何人の口伝をまとめたフィクションがあった時代から、現代は基本的に小説は一人で書く(それが表現であるから)、辞書は複数名で書く(規模が大きいから)といった常識がまかり通っているのは何によってだろうか、という疑問も、このあたりのことを考えていると浮かんできます。
 今まで何回か、複数名によって小説を書くという試みをしてきていますが、その辺りのことの具体的な解決にはなりませんでした、やはりそこには「書かれたもの」と「著者」との、時代に深く刻まれた立ち位置みたいなものが反映しているのでしょうか。
 その辺についてはどう思われますか?

Pさん

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