2019年4月2日火曜日

十六通目 2019年4月2日

Pさんへ
 
 こんばんは。もうこの話題には辟易しておいでのようですが、新元号が昨日「令和」に決定しましたね。私事で恐縮しますが、僕は三月に「松原零時」としてこれからSFを書いてゆくという宣言をツイッターでしました。僕の本名が「礼二」で、それをもじって「零時」と兄が数年前に命名してくれました。「令」「礼」「零」というわけですが、僕は令和には、さすがに違和感を覚えつづけています。それは自分の名前に起因するところからはじまって天皇制や日本の歴史などにも波及する問題でした。ここで侃々諤々の議論になるのは恐ろしいので言及は避けますね。
 さて、自己流の創作術を考えていこうとして、前回僕は恐れ多くも若き日のベケットの書簡から引用しました。「言語に汚名を着せる」というやつですね。これはまさに元号にもいえることで、これからじゃんじゃん文学の言葉で令和に汚名を着せまくりたいものです。
 では、どのような汚名が元号には延いては言語には必要なのか。それはPさんが前回の書簡の終わりで添えた「アカデメイアの再来」とどう関わるのか。そのまえの「山羊の大学」というのは僕が提案した文学勉強会の名称ですが、この書簡がすでに「山羊の大学」みたいな役割になっていますね。でもこの書簡は果たして、言語に汚名を着せることができているのか。汚名といってもワイドショーや週刊誌のようなゴシップネタを口やかましくがなりたてることではないでしょう。それもひとつのやり方ではあるんでしょうけど、そういうものだけではいけない。だから僕はSFというジャンルを使って、言語に汚名を着せようとしています。
 いま「血の春休み」(「青い詩人の手紙」になるかも)を書いています。五十枚ほどまで進みました。これは今秋発行予定の「前衛小説アンソロジー」に掲載するつもりでいます。書き始めたのは昨秋でしたので、SF風味は希薄でジュブナイルといった感じです。いまのところほとんど勢いだけで書き進めているからこれから手直しが必要ですが、前作の「衝突」という私小説めいた短篇と比べれば、おこがましいですが多少はマシになっていると思いたいです。
 SFではサミュエル・R・ディレイニーの「エンパイア・スター」を読んでいる最中ですが、町屋良平の『1R1分34秒』も併せて読んでいます。このSFと純文学の併読というスタイルも言語に汚名を着せるためにやっています。
 町屋は『青が破れる』を読んで感心し、「水面」(『ぼくはきっとやさしい』)で失望し、それから読むのを止めていた作家でした。ですが芥川賞作家になり、また読んでみようかと購入だけしていました。相変わらずのスノッブぶりですが、近しい人の評判もいいのでまたトライする気になったわけです。読み終わったら感想をどこかで書きます。
 読みかけ、積ん読、買い逃し、まったく締まりのない僕ですが、これからどんどんやる気を出して、読書と創作に勤しみたい新年度です。この進歩のない足踏みさ加減が、僕のアカデメイアであり現時点での汚名といえますね。

松原より

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