2019年5月15日水曜日

二十二通目 2019年5月15日

Pさんへ

 文学フリマ、ありがとうございました。お陰様で、今回の文フリはメルキド出版史上最高の売り上げを記録しました。よかったです。
 さて前回、前々回と、日本の純文学と翻訳SFの併読という方法論を口酸っぱく説いてきた僕ですが、性懲りもなく今月に入ってからもそれは不変で、テッド・チャン「バビロンの塔」(『あなたの人生の物語』収録・ハヤカワ文庫)を東京行きの新幹線で読み、そしてきょう難儀して古井由吉の「先導獣の話」(『木犀の日』収録・講談社文芸文庫)を読み終えました。その2作の感想を書いてみます。
 まず古井のこの自選短篇集を買ったのは、おそらく1998年のことだと思います。蒲田に住んでいるころで、渋谷か神保町の書店で見つけたのでしょう。当時の僕は23歳でありながら浪人生で予備校にすら通わずぶらぶら首都圏を彷徨していました。いま振り返るとこの時期がいちばん本を読んだし映画も観ていました。古井をはじめて読んだのもこのころで『夜明けの家』を蒲田図書館で借りて数篇読みました。そのあとに「杳子」を読んだと思います。逆かもしれませんが。
『木犀の日』は、こんかい読んだ「先導獣の話」目当てで購入したと、これも曖昧ではありますがそう記憶しています。なぜそうだったのかまでは覚えていません。もしかしたら古井のデビュー作だと勘違いしていたからかもしれません。本来のところは「木曜日に」(ことしの1月に読みました)ですが、おなじ1968年発表なので。当時古井は31歳になっています。23歳の僕は古井は遅咲きだなと思ったものですが、僕はもうすぐ44歳になってしまいます。
 与太話が過ぎたようです。作品内容について考えてみます。
 古井というとその風貌や装幀から枯淡のイメージ、いかにも退屈で古くさく保守的、難解という偏見を抱いてる方けっこういないでしょうか。僕は少なからずそんなうちの一人でありました。こうした誤った先入観は大江健三郎にもありがちなことではないかと思います。ヒューマニズム、知識人、平和憲法、原発反対などの政治的な刷り込みが多いように推測しますが、現に大江のテクストを読めば、そのアクチュアルな現実描写、過激な生と性と死、深甚なる恐怖感と窮境からの魂の救済など、壮大でありながら悪趣味で刺激的な魔的小説思想だということがわかると思います。
 翻って古井の初期作に光を当てて考えてみるなら、ドイツ幻想文学の影響とでもいうのか、怪奇で幽玄な短篇の世界に引きずり込まれます。一筋縄では決していかない幾重にも折り重なる描写は分厚く、それでいてどこか儚げなすぐ解けて消え去ってしまいそうな言葉運び。とても魅力的です。後期の『夜明けの家』にもこの神髄は遺憾なく発揮されていると思います。
 こうした文学のどこかほの暗い精神的遊戯のような体験は、テッド・チャンの「バビロンの塔」などの翻訳SFの世界にも相通じるものがあると、またもや近視眼的な本同士の結びつきを愚考してしまいます。 
 ですので今回はここらで止めておきたいです。「著者の複数性」とは一冊のなかだけの複数性だけではなく何千冊、何万冊もの複数の本と本の関係のなかの「著者の遍在性」というようなものがあるのではないかと、最後に付け足しておきます。

松原

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