2019年5月2日木曜日

二十通目 2019年5月1日

Pさんへ

 4月は体調が悪くて、あまり本を読めず映画も観られずCDばかり聴いていました。読み終えた作品といえば、フィリップ・ソレルス「挑戦」、ウィリアム・ブレイク「無心の歌」、そして先日の読書会の朝吹真理子『TIMELESS』くらいです。これではいけないと思い、きのうからグレッグ・イーガン『ビット・プレイヤー』に取り組みました。といっても今回はその表題作のみの感想を述べてみます。
 このギミック(世界設定)、最初はなにがなんだか判らずに読んでいました。読み終えたいまでもしっかりとはひとに説明することは無理そうです。しかしそんな表象不可能性こそ文学だと思います。19世紀の心理小説なんかは言葉ではいい表せない精神の襞をいかに言葉で表現するかが主眼となっているように思います。それは20世紀も引き継いだ問題なのでしょうけど、1961年生まれのイーガンはSFというジャンルを借り受けて、個人ではない世界の表象不可能性を描こうとしているようです。それは作中でも語られるメルヴィル『白鯨』にも通じるあらゆるものを丸呑みするようなうつろで巨大な鯨みたいな世界にどう対峙すればよいのか、という極めて現代的なアプローチだといえます。
 先月に『TIMELESS』を読んだことは前述しましたが、イーガンとはあまり接点がないように思えるこの作品もたぶんにSF的な手法で世界について思考している小説です。ここでは戦争や震災と家族の生活が混ざり合って描かれるわけですが、その混成ぐあいがとてもキュートです。朝吹のユーモアとイーガンのひとを食ったような書きぶりには少なからず共通項がある。僕が続けて読んだからそう感じただけなのかもしれませんが、日本の純文学と翻訳SFを並べて読むという、まえまえから僕が提唱している読書法は、手前味噌になりますが、新しい知見を開くにはやはり有効な手立てのように考えます。
 といってここでなにか目に見える成果を書け、といわれても、まあそれはおいおいと煙に巻くことにします。  
 僕はいままでいいかげんな読書しかしてこなかったと、胸を張っていえてしまうほどの小説の門外漢です。ですから小説への渇き、不満感はけっこう強く、この書簡を通じてたびたびもっと勉強したい、もっと本を読みたいと繰り言のように宣ってきました。それは死ぬまで続きそうな気配です。とりあえず明日も本を読むことにします。おそらくSFです。

松原

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