2019年5月7日火曜日

二十一通目 2019年5月7日

松原さんへ

 昨日の文学フリマ、お疲れ様でした。メルキド出版の機関誌である「マジカント」の二号が、飛ぶように売れていくのを横から呆然と眺めていました。青木淳悟氏が目の前のブースにいたことを指摘して頂き、何を言ったかは忘れてしまったけれども読書会の冊子を渡して幾らか話したこと、また二次会で徘徊さんや金村さんを交えて縦横に語った「文芸」の今後についての話など、とても良い刺激になりました。
 その二次会でのお話と今回の書簡をつなげるとすると、飛浩隆の文芸誌への参入や、イーガンのテーマと「TIMELESS」との比較など、いわば「ジャンル小説」と呼ばれるものと純文学とされるものの境界は日増しに曖昧になりまた相対化されつつあり、またそうなるべきものであり、どちらにしても良質な、言葉を使った技芸という意味での「文芸」があり、また良質でないものもありうる、という考えてみれば当然の事実があるわけですね。
 僕が完全に文学の方向に舵を切り、ゆえに過剰にSF方面への情熱を抑圧することになるのですが、その直前にいたく影響を受けた作品の双璧が、筒井康隆の「虚航船団」と、夢野久作の「ドクラ・マグラ」でした。狂気とSFと小説の要素が渾然一体となり、大掛かりな構えで他の小説をインパクトの上で封じ込めるという、かつてない衝撃を得たのですが、その時からその二者が、それとなく文学の方向を指し示していたように思います。
 僕はやはり身についているので「文学」と言ってしまいます。
 その他悲喜劇の問題や韻律の問題、中世の断絶と文明開化と改元と鎖国、古事記と日本書紀と平清盛と天皇と物語とデリダとドゥルーズとウェルベック、ラヴクラフトとアーサー・マッケンとホフマンとホフマンスタール、トーマス・マンとタフマンとユーミンの話など、今後勉強を重ねなければとの思いを新たにしました。
 それほどのことを視野に入れながら尚飄々と生き長らえるように書くことというのは、やはり途方もない所業なんではないでしょうか。
 千坂恭二氏のツイートで、「ニーチェから「権力への意志」の著作を除くとしたら、マルクス・エンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」もそこから外されなければなるまい」というのをふと思い出しました。ニーチェの「権力への意志」は、確か妹でしたか、遺稿の中でも一つの著書に纏めようとされていたものをかき集めて一つの著書として出版したというものだった気がします。それを主題としてクロソウスキーが「ニーチェと悪循環」を書き、ドゥルーズが「千のプラトー」を書いたわけですが……著者の複数性を気持ち良く受け入れて書いている本は実に風通しがいいように感じるのですが如何でしょうか。

Pさん

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