2019年5月22日水曜日

二十三通目 2019年5月22日

松原様

 少し返信が遅れましたことお詫び申し上げます。利潤率が大まかにまだ一割未満であるにも拘わらず職場の従業員としててんてこ舞いしており、自身の寝食の具合や脳天に正午が下ったかどうかも定かではない次第にございます。悪しからず考えて頂ければ幸いにございます。
 さて。昨日の(?)音楽に関するツイッター上でのやり取りが印象に残っています。東京文フリの前日に、私は松原様に確かにCDを、今となっては象徴的な数字になってしまいましたが、十枚きっかり、お貸ししました。それは私にとっては、こんなことを言って憚りませんが最もお気に入りの小説よりも影響を受けたかもしれない音楽を選りすぐったと言えるほどのものです。しかし、これも私の好む傾向にリスペクトを捧げる意味でも、数分間のうちに即興のように選んで自分でも乱暴と思われるほどのスピードで選びカバンに投げ入れて例の映画鑑賞の場に持ち込みました。僕はやはり、音楽は限界のところでは即興性に支えられていると思っています。ある程度計画はあるかもしれない。前に進む、少なくとも自分がそう思いたい為に手掛かりとして例の計画とか、メロディと伴奏という二分法とか、旋法とかコード理論とか楽典とかスペクトラム分析(1/f揺らぎではないけれどもフーリエ級数展開とか)とか音律とか展開の分類とかその他の形式的手法などを手に取るがその先にあるのは即興。音が発生するのはマイクに入りあるいは弦が震え膜が完全な張力を保ちつつたわむその瞬間であり、その膜のたわみと撥が反発しまた受け入れられるその瞬間であり(これはマジ話です)、それは白紙に照射される焦げた影よりも脳の伝達スピードの方に近いスピードで発生するのであります。でありますので僕の選んだ十枚のディスクはそのスピードに足並みを合わせた各種作家、演奏家であると私は勝手に思っています。保坂和志も言ってましたが人間はなんで今に至るまでジャズを演奏するように小説を書けないのでしょうか。そうしている、そう試みている人はいるのかもしれないが本当にわずかです。あるいは全て即興であるという立場に受容する側が立たなければならないのかもしれない。その層において読む。そんなことが出来るのは後藤明生だけじゃないか。身に染みた二分法が実に憎い。
 実に混乱した文面ですが、以上としまして返信とさせて頂きます。課題図書の『百年の孤独』、面白いのはわかっていましたが批判的な意味も含めて楽しく読み進めています。同時にドストエフスキーの「ロシアの文学について」、フロイトの「モーセと一神教」などを読み進めています。

追伸

 先日お勧め頂いたヘルマン・ヘッセの「読書について」の記述、非常に気になります。私は急いでいますが図書館に行くような時間も取れず、気が狂いそうです。一体この世では何が起きているんでしょうか。「著者の遍在性」についてもむろん、非常に示唆を得てことあるごとに考えていますが、それに対して何か言うということが出来ずにいます。何かわかりそうになったら、お耳に入れて頂けると有り難いです。

P様
 

0 件のコメント:

コメントを投稿