2019年6月11日火曜日

二十五通目 2019年6月11日

松原さんへ

「紙飛行機」への感想、ありがとうございます。直接的でなく、ひたすら創作行為を鼓舞するような口調が、松原さんらしいと思いました。自分としてはいまいち垢抜けないこぢんまりとした作品になってしまったと、後悔しています。
 いつかヘッセの読書論を巡って、ツイッター上で対話をしましたね。そのことと「著者の遍在性」ということなどが、分解したり統合したりしながら、頭を巡っています。仕事が幸いにも負担が軽くなっているので、いつになく読書が進んでいます。関係ありませんが、7月の「モロイ」の読書会には、申し訳ありませんが前回使用したICレコーダーは繰り返しの再生がやりにくかった記憶があるので、また別の物を用意して持って行こうかと思っています。いとうせいこうが「鼻に挟み撃ち」の中の短編か何かで、テープ起こしをする享楽について語っていましたが、僕にとってもまさに享楽的側面があります。何時間も聞き取りづらい音声と格闘し文字にしていき、当然のように口にされる言葉が全く文字に転換出来なかったり、不自然な並びになったり(意外なようですが、発音された言葉の中のかなり多くの部分が、文字にしたとき不自然になるというよりも、全く文字に直しようのないただの挨拶だとか、相づちだとか、突発的な感嘆句だったりとか、単なる発声そのものでしかなかったりすることに驚きます)、またコミュニケーション上当たり前になっている口頭の言語が文字に直される時の新鮮な感じに打たれるのです。打たれながら、何時間も音声を頭の中に、繰り返しインプットしながら過ごす時間は濃密で、その時目の前に位置している相手とはまた別の何かが、共有している空間の楽しさや白けた感じそのものに対峙しているような気がします。その幾分かは前回の「カフカ読書会」で表現出来たかと思いますが、カフカの日記のテキストに触れる何倍か、ベケットの「モロイ」の文章を読むと混乱してきます。文章を書くときの落ち着きとはぜんぜん違い、人に対峙して話すと読んでいる時の混乱の九十パーセント近くは夢を忘れる時のようにどっかに消えてしまいます。僕はつとめて本を読んだときの感想を述べる時はその混乱を可能な限り再現しようと思うのですがなかなかうまくいきません。ともあれ、7月の読書会を楽しみにしています。名古屋の地を踏むのがこれで二度目になります。あの余韻からこの書簡が始まったことを思うと、感慨深いとともに、互いに火曜日に追われているようなサマを見ると業のようなものまで感じてしまいます。
 最近、「メルキド出版」としての活動が、他のアマチュア作家のみなさんを巻き込んで本当に出版社めいたものになりつつあるその行動力には舌を巻いております。クリストファー・R・ブラウニングの「普通の人びと」の記録の一節や、渡辺一夫がフランス王朝の発言録を引用しているのを読むにつけ、このような一介の文学オタク同士の会話のようなものも、数世紀後になんかの理由で発掘された際には少しは面白みがあるんじゃないだろうかなどと、益体もないことを考えたりします。
 前回の書簡の中では、「ビートルズもマイナーなファンクバンドも、前衛音楽も並列に聴き漁った。」という所が、とくに感銘を受けました。いろいろな種類の音楽を松原さんに送りつけておきながら、最近はかつて聞いた音楽を酢昆布でも噛みしめるように聞き直すばかりで、新しい音楽に触れることを全く怠っていました。それは、慣れた音楽に慣れていくだけで音楽とは何なのかについて全く考えることをやめてしまったことを意味します。かつて自分に革命をもたらし、音楽とはこれだという確信を齎した素晴らしいサウンドも今となってはどんどん輪郭を失いつつあります。
 どんどん前に進むしかありませんね。

Pさん

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