2019年8月21日水曜日

三十五通目 2019年8月21日

松原さんへ

 夏が終わろうとしています。ドゥルーズの言うように、人の孤独である権利を邪魔しないような共振・共鳴を生み出すというのは、難しい事です。確かに、我々は例えばベケットとか、ヌーヴォーロマンとかいった、小説性を押し詰めたような極を見つめるといった場面に差し掛かっているわけですが、それだけでは何かが欠けていると思わされます。水道料金の民営化に対する政府への意見箱のようなものが今日で締め切られると言う事で、一部で話題になっています。兄が「AIが今後進化していって、神にも等しい存在になり始めたとき、我々はどう振る舞うべきか」と訊いてきたので、「それは計算機科学に属するのでは無く神学に属する」といった返事を、確か行いました。「どう振る舞うべきか」、といった決然とした言い方はしていなかったかも知れません。最近体調が悪く、あまりまとまって物を考えられなくなってきているのですが、自分でそう言いつつ言い訳のように感じられもし、根本的に物を考えられなくなってきているのではないかとも思います。『路面電車』の中でシモンが、ブリューゲルだボッシュだというあの時期の絵画について触れている箇所がありましたが、まさにシモンは良くも悪くも視覚的なヴィジョンをつねに問題にしている作家だと思いました。それだけではないけれども。『狂気の歴史』の冒頭にある、視覚的ヴィジョンにおける狂気の表現と、人文学者のそれと、という箇所。今回の読書会に伴いリカルドゥーという、『テル・ケル』の中心人物の一人の評論を読んでいたのですが、ほとんどがサルトルへの反論で埋め尽くされていてなんだか憔悴しました。いっそのこと散歩でもした方が良いのかも知れませんが、この暑さではどうしようもありません。文芸の未来というより、無印の『未来』というものが、本当に存在する物かどうか、疑問でなりません。
 最後の往信にふさわしくない悲観的な調子に終始してしまいましたが、無軌道に始まった企画ですので、そんな風に終えるのも良いかと思っています。今手につかんでいる物を手がかりにし、ひたすら進んでいくしかないですね。1月から毎週のこと、お付き合いありがとうございました。

Pさん

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