2019年8月9日金曜日

三十三通目 2019年8月9日

松原さんへ

 光に満ちた空間でもなく、闇に浸された空間でもない、単にあるだけといった灰色の空間を好んでベケットは選んでいましたね。私達がどういう空間に属しているのか、どうそれを認識しているのかといったことは重要な問題であり、それを描くことは小説の責務の一つであると感じます。個人的なことですが、明日うちの家族が全員久しぶりに実家に集まります。あまり過去をなつかしがってばかりいてもネタ切れになると思いますが、自分のよって来るルーツを振り返ることは創作上においても大きなできごとであるように思います、じつに個人的な事ではありますが。前に語ったことがあるかもしれませんが、松原家の礼二さんのように、私にも表現活動の手本にもなり遠くあおぐような存在になった兄がいます。建築の分野でビックリするような規模の成果をあげているのですが、大学の卒業制作はやはり、わが家のルーツをとても強く意識したものでした。それと同時に社会に対する実にクリティカルな疑問を呈するものでもあり、それゆえに単に作品として受け入れることを拒んだ先生方と賛否が分かれ、結局大賞は逃してしまったとの事です。その作品とコンセプトを見せられた時の衝撃は今に至るまで尾を引き、今でもあの作品を頭に思い描いて手を組んで「何だあれは……」と考え込むことが度々あります。ジャンルは違えどあれに匹敵するような小説が果して自分に書けるのかどうか、兄もそれを望んでいましたが情熱というものから置き去りにされたようになっている今ではそれももう不可能なのではないかと思えてしまいます。信じられないような暑い日が続いています。名古屋の旅においてはずいぶんお世話になりました。名古屋名物を食すことが出来たのは幸いでした。読書会の帰り、暑すぎる道すがらお話ししたところで決めた事ですが、そろそろこの生存書簡に一旦区切りを付けようということになりました。今月中で第一期が終了するという体で、互いに抱えている企画も多くなってきた所で、僕も難儀になってきた所でした。この生存書簡も枚数は今までの所で百枚は超えている目算なので、分量としては十分なのではないかと思います。
 クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』を長い事図書館で借りては返ししていたのですが、哲学書房刊行のものでずいぶん重いので先日文庫版を購入しました。これも『モロイ』『百年の孤独』と同じで、取っかかりの所だけ何度も挑戦しては挫折している本のひとつです。長さもさることながら、余りに書いている内容の散漫としていることが原因だと言い訳のように考えますが、クロソウスキーもニーチェのある重要な部分を引き継ぎ、それに導かれるようにしてそういう書き方を余儀なくされたのでしょう。何が継がれて何が単なる模倣であるのか、直感でわかるような気もするのですがそれも簡単には言えない所です。クロソウスキーの著書のことも、保坂和志の小説論から知りました。そろそろ、何かに従うということにけりをつける頃かもしれません。
 最近、読書会を、それも大部のものを相手取りつづけていることによって、本は一回限り読むのではわからない取り逃す所が山ほどあり、これから何度も読むことになる本の最初の一回を読んでいるのだということ、読書とはそういうものであるということが段々にわかりつつあります。気の長い、業の深い話だと思います。自分自身の言葉だけで語ることは、どうにも薄っぺらくなりますね。それでも何かを得たいと思っています。

Pさん

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