2019年7月1日月曜日

二十八通目 2019年7月1日

Pさんへ

 今回はTwitterの予告どおり、中原昌也『こんにちはレモンちゃん』(幻戯書房・2013)について書きます。
 一読した率直な感想としては「俺が馬鹿だった。間違ってた」でした。どういうことなのかを順を追って説明するために、まず「フランス現代文学」(主にヌーヴォーロマン)に関する思い出話をさせてください。
 僕が「ヌーヴォーロマン」という単語を知ったのはいまから三十年近く昔になります。僕はたしかまだ高校生になったばかりで、気まぐれにふらっとひとりで岡崎の古本屋めぐりをしました。(後にも先にもこの一回きりでしたが)
 そこでは町沢静夫の精神分析の書籍やチェーホフの『退屈な話・六号病室』(岩波文庫)などを買い求めたと記憶しています。そして、そのなかに何気なくタイトルに惹かれて買った『ヌヴォー・ロマン論』※原文ママ(J・ブロックーミシェル・現代文芸評論叢書)という古めかしい本があったのです。(同叢書からリカルドゥーの良書が出てたなんて知る由もありません)
 いまは手元にないので正確な確認はできないのですが、おぼろげに覚えていることとしては、「ヌーヴォーロマンはよろしくない」「グリンメルスハウゼンのほうがよっぽど革新的だ」「その理由をこれから述べる」といったようなことだったと思います。(間違っていたらごめんなさい)
 僕は単語のかっこよさから「ヌーヴォーロマン」にそこはかとなく期待を抱いていたので(ヌーヴェルヴァーグみたい! というよくあるあれです)とてもがっかりして、続きを読むのを止めてしまいました。
 それから兄の百科事典で「ヌーヴォーロマン」を調べてベケット、ブランショ、ロブ=グリエなどを詳しく知ることになり実際に図書館や書店で探して読んだり見つからなかったりしたのですが、概してよくわからない文学なんだなという甘い認識で終わってしまいました。(悪い早熟の典型です)
 なんだか長くなっていますが、それから時は過ぎて1996年、僕は中原昌也の小説に出合います。それはヌーヴォーロマンと違い一発で虜になるほど引き込まれる世界でした。でもそれから僕も成長して渡部直巳などを読み、どうやら中原はフランス現代文学に多大な影響を受けているらしいぞ、ということに気づかされました。でもまたぞろヌーヴォーロマンに手を出そうとは思わず相変わらず舞城王太郎や佐藤友哉を読むことで日々を忙殺していました。
 それでつい一年前くらいのことです、Twitterで虚體ペンギンさんに出会い、彼の作品ならびにpabulumを読ましてもらい衝撃を受けたのは。まさにそれは僕が若かりしころに見切りをつけたヌーヴォーロマンを彷彿とさせるものだったのです。そしてさらに今年、キュアロランバルトさんの作品を読む機会があり、それにもフランス現代文学の影響が色濃く投影されていました。二人の作品は同じ文学潮流の影響下にありながらまったく別様の代物です。でも僕はどちらにも新しい文学の可能性を感じています。
 さていま一度、中原の小説に話を戻しますと、つまりは中原をひさしぶりに熟読して虚ペンさんやキュアさんの過激な文学熱と同期する衝撃を受けたわけです。僕は最近、安部公房や三島由紀夫を読み、いたく感動しているとどこかで書いたと思いますが、これらの文学の批判として中原が出てきたことをあろうことか失念しておりました! 安部や三島の予定調和なところは阿部和重も批判していることですが、中原の著作は、紋切り型の表現を無意味になる地平まで突き詰めており、一口にいう文学とは似ても似つかない言語的センスで、旧来の純文学をハルキより過激に刷新したと僕は感じていたのでした。そしてこれはヌーヴォーロマンがフランス近代文学に与えた爆発的な打撃と総じて同義なのではないか、と。(手法は異なりますが)
 大げさではなく、虚ペンさんとキュアさんがこれからすくすくと成長して、同人界に留まらず日本文学延いては世界文学に一石を投じるようなものを書いていってほしいです。僕やPさんのおじさん組も彼らに負けず劣らず果敢に文学的冒険をしていきましょう。

松原

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