2019年1月23日水曜日

三通目 2019年1月23日

 松原さんへ

 こんにちは。『サント・ブーヴに反論する』を所収した『プルースト評論選I』ちくま文庫を、早速図書館で借りてきました。これから読もうと思います。サント・ブーヴという人の著作をまったく読んだことがないのできちんと読めるかどうか不安です。ついでに図書館の近くのとても品揃えのいい古書店でレヴィナスの『全体性と無限』岩波文庫も購入してきました。今まで被って購入してきた本をついでに買い取りして貰いました。六冊ほど売って八百円になりました。しかしサルトルの『嘔吐』などは、在庫がかさんでいることもあり、値がつかなかったかもしれません。個々の本の買い取り価格については、開示されることはありませんでした。その古書店は、たとえば古井由吉、後藤明生、吉田健一などの作家を集中的に取り扱ったりなどしていて、特に質の良い本を揃えているのであるから、僕もそのラインナップの邪魔にならないようなものを選んで、売ったつもりでした。それが八百円という売値の中に反映されているのかどうか、それはわかりません。一般的に言って、古書店の買い取り価格は定価の四分の一が相場なのではないかという感触を受けています。四分の一の値段で買い取って、その二倍の二分の一の値段で売る事によって、収益を得ているわけです。六冊で八百円というのは、なのでそれなりに健闘している方だと思います。繰り返しますが、それが僕が本の選定をした結果なのかどうかはわかりません。余談が過ぎました。『サント・ブーヴに反論する』より、「芸術にあっては、(少なくとも科学的な意味での)先達も先駆者もいない。一切は個人のうちにあり、その各個人が、芸術や文学の試みを、独力で、最初からやりなおすほかないのだ。先行者たちの作品は、科学の場合のように、後代の者がそのまま利用できる規定の真理を成していない。天才作家といえども、今日のいま、一切のことをしなければならない。彼は、ホメロスよりもはるか先まで進んでいるわけではないのだ」とのことですが、(ホメロスからフィクションの歴史を語り始めるのは、ブランショも『文学空間』で行っていましたね……)この文章の軸は「規定の真理」という部分でしょうか。文学が先行者の作品から後代の者がそのまま利用できる規定の真理を抽出することは出来ないのか? プルーストの作品が先行する文学から分け隔てられているというのも確かに感じますが、果たして完全にそうであるのか? 翻って科学がそうイメージされている公理系をこれが書かれた当時持っていたのか? それは現代に至るまで維持されているのか? それとも更新されているのか? 根本的な構造においてそうされているのか、それともそういう考察はなされていないのか、というのは科学においてなぜ古典的科学と現代的科学に隔てられるのか、それによって古典的ニュートン力学(たとえば)が否定あるいは別の次元の創出によって超克されるに至った理由みたいなものはあるのか? 人為的にそういう道に入ったのかそれとも? 翻って、芸術においてはそういう系譜の切れ目みたいのに関してただひたすら「一切は個人のうちに……」と言えばよいのであるか、それはさすがに肯定されないのではないか、など色々考えさせられます。プルーストの時代の「個人」「個人的」という用語は、どんな響きを持っていたのか。
 次の節に進みますが、「小説は科学論文のように、何らかの新発見がなされるべきだ」と常々考えてきたという所。非常に同意します。イメージ通りのアヴァンギャルドからいかに外れることが出来るのか。小説を統計学のレポート作成装置に流し込むことをいかに防げるのか。
 岡田利規が自伝を書くにあたって『遡行』という題/手法をとり、現在からすこしずつ時期を下って叙述していくという書き方をしています。なぜ私たちは遡行しないのか?
 単に能力的な話をすると、小説を書くのに必須なのが、記憶力なのではないかと最近思っています。記憶とは現前する限りにおいては新しいものなのか? 保坂和志が藤沢周の直感像体質についてあれはラカンの言う現実界と同じものだと言っていたけれども、本当にそうなのか? チェ・ゲバラなど、歴史の歴史性を構成するいくつかの固有名詞があるけれどもそれは作家の固有名詞と同じ機能を有するのか?
 まじめに考えると、新しい小説が生まれるときの新しさとはいったい何なのでしょうか。それ自体、未決の問題なのではないでしょうか。

Pさん

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