2019年1月24日木曜日

四通目 2019年1月24日

Pさんへ

 こんにちは。先日、新宿のルノアールで、Pさんのアラン・ロブ=グリエ『新しい小説のために』を冒頭だけ読ませてもらいました。そこでも『サント=ブーヴに反論する』と似た主旨の、凡庸な評論家への手厳しくも爽快な批判がなされていました。この二作は、蓮實重彦の愛読者であれば、にんまりすること請合いですね。
 さて、Pさんからの三通目の終わりに記された「新しい小説が生まれるときの新しさとはいったい何なのでしょうか。それ自体、未決の問題なのではないでしょうか」という問いかけに、僕は僕からの二通目で、この往復書簡のテーマとして掲げた「死と生」の問題を重ね合わせてしまいました。
 しかし、僕はここで思考の碇を下ろさずに、即座に迂回してみたいと思います。僕が三通目の書簡で、さらに強くひっかかったのは、「小説を書くのに必須なのが、記憶力なのではないかと最近思っています」という箇所です。これは僕も最近考えたことです。それには、今月のNHKラジオ第2放送の『歓待する文学』で取り上げられた、W・G・ゼーバルトが大きく影響しています。そこでは講師の小野正嗣がゼーバルトについて、「ノスタルジア=郷愁」の作家であるとしていました。
 それを聴いた時点で僕は、ゼーバルトの著作を『アウステルリッツ』の十数頁しか読んでいませんでした。しかしそれでも僕は、この作家が「ノスタルジア=郷愁」の作家であるという話を聴いて、もっともだと膝を打つことができました。このラジオで語られた「ノスタルジア=郷愁」とは、「記憶」の純化した形態だと思います。(ちなみに、その回は「追憶の悲しみ」というタイトルでした。)
 僕は昨日まで読み込んでいた、高橋弘希の『送り火』を中断して、先だっての新宿のルノアールで、ロブ=グリエの『新しい小説のために』を見せてもらった日の午前中に、紀伊国屋書店で求めたゼーバルト『カンポ・サント』を、今日から読んでみようと思います。その感想は、次にまた述べてみたいです。
 それでは、なんとも手短な書簡になってしまいましたが、Pさんからの返信、楽しみにしています。

松原 

0 件のコメント:

コメントを投稿