2019年1月28日月曜日

六通目 2019年1月28日

Pさんへ
 
 こんばんは。当初は一週間おきと決めていたはずの返信を、また翌日に返してしまい申し訳ありません。
 Pさんからの五通目がくるまでに、ゼーバルトの『カンポ・サント』をできるだけ読み進めておこうと思ったのですが、元来の怠け癖から始めの「アジャクシオ短訪」と「聖苑」しか読めませんでした。
 それから引き寄せられるように、保坂和志の「残響」の1/5ほどを読み、高橋弘希の『送り火』を読み終えました。「残響」は、磯崎憲一郎がたびたび薦めていたのは知っていましたが、パラパラ立ち読みしたのと冒頭を読むくらいで、長らく積ん読でした。
 僕は、てっきりこの小説は、冒頭に出てくる、ゆかりと啓司の話かと長らく思いこんでいましたが、俊夫と彩子という、ゆかりと啓司が引っ越してきた一軒家の前の居住者の話が、随時挟み込まれたり、気まぐれに早夜香の話になったりと、展開が重層的で驚きました。さらに、俊夫の哲学的考察には心底度肝を抜かれました。以下に、あまりのことに、そこで読むのを止めてしまった箇所を引用します。
 
「世界が完全に物質的に記述されたとしてそれで自分が満足すると思っているわけではなかったが、それでもとりあえずは世界についての完全に物質的な記述を知りたいと思っていた。」(『残響』中公文庫・105頁)
 
 そして、この「記述」は、ゼーバルトの「郷愁」にも呼応すると僕は考えました。『歓待する文学』で小野正嗣が、ゼーバルトの『移民たち』から引用した箇所を孫引きします。
 
「絵を制作していくときに出る塵芥とたえまなく積もる埃のほかは、どんなものも付け加えないことだ、そしてしだいにわかってきたのだが、このたえず積もりつづける埃こそ、自分がこの世でいちばん好きなものである。光よりも空気よりも水よりも、埃はわが身にずっと親しい。埃を払った家ほど我慢のできないものはない。ひと息ごとに物質が解きほぐれ消え失せてできる灰色のなめらかな粉末におおわれて、物たちがそっとくぐもって横たわっていられる場所ほど、自分にとって安堵できるところはない、と。」(『移民たち』白水社・174頁)

「記述」+「郷愁」=「埃」、Pさんからの一通目で「四元素」の話が出ましたが、「真の物質の起源」は「埃」であり、且つそれは「郷愁」を纏って「記述」できるのではないか。
 とにかく、ゼーバルトとの出会いは衝撃的です。これは、ロベルト・ボラーニョの衝撃にも匹敵します。『カンポ・サント』は、後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』みたいだし、僕が敬愛する藤枝静男や古井由吉とも符合すると思います。ぜひとも、『ゼーバルト・コレクション』全七冊を揃えてみたいですね。
 さて、「気紛れ」な読書を経て、「胡散臭さ」の典型のようなひとまずの結論を得て、今回の書簡を終えようと思います。これに付け加えるのなら、この継ぎ接ぎの結論に、「新しさ」をどう接続するのか? そこには「死と生」がどう関わるのか? といった四通目で先延ばしにした疑問が、首を擡げます。
 
松原

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