2019年1月23日水曜日

二通目 2019年1月23日

Pさんへ

 こんばんは。さて、またまた雑談の中から生まれた奇妙な企画を、二人で行うことになりましたね。いつまで続くのか皆目見当もつきませんが、やれるところまでやってみましょう。
 では、僕がここで特に考えてみたいことは、やはり「死と生」についてです。これは、Pさんの一通目にも記されていた言葉ですが、僕の人生においての一大テーマであり、それは僕がいままで書き綴ってきた習作群にも色濃く反映されているのだろうと思います。
 それを考えるにつけ、幾人もの先行者たちの成果と挫折を参考にして進めていけたらいいです。しかし、そのためには何度も何度もその問題から大きく迂回しないことには、問題の核心に触れることは不可能でしょう。それだけ難しいテーマを選んでしまったといまになって逡巡し、また「できるだけ多岐に亘りさまざまな問題に光を当てる」こととした、この自由度の高い企画に水を差す恐れもあるのではと、重大な危惧を抱きもするところです。
 それでは、あまり杓子定規になるのも、ブログの性質上つまらなくなるのですが、まずはざっくばらんに、Pさんが追伸で上げた、マルセル・プルーストの『サント=ブーヴに反論する』を初めて読んだ感想を述べさせてもらいます。
 プルーストによるこの批評文で、僕が注目したいのは、科学と芸術の相違についてです。プルーストはこう述べています。「芸術にあっては、(少なくとも科学的な意味での)先達も先駆者もいない。一切は個人のうちにあり、その各個人が、芸術や文学の試みを、独力で、最初からやりなおすほかないのだ。先行者たちの作品は、科学の場合のように、後代の者がそのまま利用できる規定の真理を成していない。天才作家といえども、今日のいま、一切のことをしなければならない。彼は、ホメロスよりもはるか先まで進んでいるわけではないのだ」
 僕は、「小説は科学論文のように、何らかの新発見がなされるべきだ」と考えてきました。でも、この文章やアルチュール・ランボオの『地獄の季節』の一節「科学。新貴族。進歩。世界は進む。なぜ逆戻りはいけないのだろう」などに触れ、その脆弱なアフォリズムはいとも簡単に瓦解するわけです。それは、「小説は自力で過去に遡り、その過去から未来の延長をすべて消す現在そのものにならなければならない」とでも書き換えるべきでしょうか。それとも、「小説は最先端であってはならない」と逆説的に新しい小説を規定するべきでしょうか。
 Pさんは、どうお考えですか? 

松原

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