2019年1月27日日曜日

五通目 2019年1月27日

松原さんへ

 こんにちは。記憶力とは僕は平坦にもいわゆるタモリ的記憶術くらいにしか考えていませんでした。私が生だの死だの言う時にも、言葉の抽象-具象度への配慮が先で、何を意味しているのかは二の次でした。小説を書く際にはよくこんなような適当なことをやるのですが、何といってよいか、この往復書簡のような場でもそうしてよいのかどうか、批判的に考えることもせずに、こんな事ではロブ=グリエに叱られてしまいますね。『新しい小説のために』において、「すなわち偉大な小説家とか、《天才》とかは、自覚のない、無責任で宿命的な、いやその上いささか痴呆的な怪物とでもいったもので、彼の発する《伝言(メッサージュ)》は読者だけが解読すべきなのである」ということを言っていました。ここで「偉大な小説家」とか《天才》と呼ばれている者が従来の小説家のイメージで、そんなものを捨て去るべきだという文脈で言っているわけです。私達は無我夢中に書いていつの間にか名作が生まれるみたいな(そんで周りの人間、プロデューサーやらマネージャーやらが母親のようにそれを支えてくれるといった)心地の良い幻想を捨て、戦略を練り、スタンドアロンで、狙い撃ちして打倒しなければならないと、僕はこれを読み替えました。似たようなことを、保坂和志が高橋悠治のエッセイを引用して、小林秀雄がモーツァルトについて言っていたことを批判していましたが、今手元にないので正確には引けませんが、モーツァルトが構想さえ出来てしまえば後はアヒルにでも楽譜を書き付ける事が出来ると言ったのを、そうであればその楽譜はアヒルに経由出来る程度の価値しかなかった、という意図の発言だったと思います。アヒルは楽譜を書き付けるために生きているわけでもないので、失礼な話ですが。話は戻りますが、ロブ=グリエの小説論を読んでいる際に、彼の小説は、いろいろな情景がかくまでも細かく、立体的に、そして意味を持たずに存在するということについては、了解できました。では、それはいったいどこに存在していたのか? 彼の小説はあたかも確実にあった記憶を余すところなく報告する、といった雰囲気があります(もっとも、その「報告する」スタイル、「私は確かにこれを聞いたので、聞き手はそれを信じる必要がある」として「物語る」スタイルをも否定するわけですが)。それは彼の否定する「深層」としての「真実」を求める態度と、いったいどこに相違があるのか? これは反語として言っているわけではなく、僕は信用する作家は必ず信用しながら読むことにしているので、そのどこかに肯定すべき箇所があるはずです。また、その周到に組まれた「戦略」とやらは、いったいどこから発想するのか? そのヒントは意外にも「気紛れ」や「胡散臭さ」の中に あるのかもしれませんね。ゼーバルトの『カンポ・サント』も、返信のあったその日に借りてきました。蓮實重彦が新潮の最新号でマルクス・ガブリエルについてケチョンケチョンにけなしていましたね。一日おきに返信を交わしていたから、もう出遅れた感じがあります。明後日の読書会の準備も自分なりに進めておきます。筋肉痛には温かいお風呂に浸かるのが一番です。

Pさん

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